桐野夏生さんの新著『とめどなく囁く』は、穏やかな再婚生活を送る41歳の主人公が、〝前夫の気配〟に脅かされる物語。自身の40代は「密度の濃い時代」だったとのことでーー

だから、夫婦を書くのは面白い

ある日突然、夫が行方不明になり、数年後、“囁き”のように、彼の存在が生活を脅かしはじめたら?――久しぶりに書いたサスペンスは、そんな発想から生まれました。

主人公の早樹(さき)は41歳。31歳年上の夫・克典(かつのり)と、相模湾を望む高級住宅地にある豪邸で暮らしています。早樹は前夫の庸介(ようすけ)を海難事故で失い、克典は前妻を病気で失っている。互いに配偶者をなくした者同士がいたわりあう、静かな再婚生活でした。

ところがある日、早樹は庸介の母親から打ち明けられます。「庸介によく似た男が、スーパーにいた」と――。死んだものと諦めながらも、遺体が見つからなかったことで「いつか帰ってくるかもしれない」という希望を捨てられなかった早樹の心は、激しく揺れ動きます。

早樹は庸介の友人たちを訪ね、失踪の理由を調べ始める。すると、彼のもうひとつの顔が徐々に浮かび上がってきます。自分の親友と浮気していたのではないか? 毎週釣りと偽って、いったいどこで何をしていたのか? 庸介の不在がもたらす不安、裕福な生活になじめない居心地の悪さ、克典の末娘からぶつけられる悪意……。あちこちから聞こえてくる“囁き”に、早樹は混乱し、追い詰められてゆきます。

実は庸介の生死は、とくに決めないで書いていたんです。新聞での連載中、かなり後半まで「どうしようかな」と迷いながら書き進めていたので、それが文章にも表れているような。皆さんにも、最後までドキドキしながら読んでいただけるのではないでしょうか。

冒頭で、早樹の自宅の庭に蛇が現れるのですが、これは41歳の女のエロスを象徴したもの。前の結婚が突然断ち切られ、傷ついていた早樹は、年老いた克典にただ癒やされたかった。穏やかな暮らしを送りながらも、早樹のエロスはいまだ消えていない。蛇が、彼女の複雑な心境を表していると思います。

本作には、早樹と同い年の女性が3人出てきます。克典の前妻との末娘でエキセントリックな性格の真矢。その兄嫁で現実的な優子。そして早樹の学生時代からの親友で、気難しい美波。いずれも一筋縄ではいかない女たちです。互いの主張をぶつけあい、喧嘩しながらも、立場を超えてわかりあえる一瞬もある。そうした女ならではの心の機微は、リアリティをもって描いたつもりです。

40代は、女性にとって難しい年代ですよね。社会的には落ち着いた年と見られますが、体力も気力も十分で、仕事も恋愛も、まだまだがむしゃらに打ち込める。むしろこれからが青春じゃない? と思います。私が『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞をいただいたのは、43歳のとき。夢中で小説を書くいっぽう、心の中は「蛇」だらけであがいていて……。そんな密度の濃い時代を思い出しながら執筆しました。

この作品は、「結婚」そして「夫婦」の物語でもあります。生まれも育ちも違う他人と生活していくのですから、いろいろなことがあって当たり前。誰よりも近くにいる存在だけれど、憎しみがたぎる瞬間もある(笑)。たぎるだけたぎって、駄目になってしまうこともあるけれど、たいていはそのまま続いていく。たとえ一人とうまくいかなくても、早樹のように、何度でも人生はやり直せる。思ってもみなかった方向に進んでいくことだってできる。だからこそ、夫婦を書くのは面白いんですよね。