永井氏は自らの身体を被爆医療に捧げた

「生きるも死ぬるも、天主の御栄のためにネ」

私をつねに助けてくれていたのは、いうまでもなく妻であった。貧しい学究生活によく耐えて家をととのえ、次第に弱りくる私のためにこまやかな心をつかって働いていた。その妻に、私の運命を白状した、その夜の心苦しさ。長くてあと三年の寿命。私がそういったとき、乳のみ児を抱いていた妻はしばし息をとめた。

妻はつと立って、香台に灯をともし、十字架の前にひざまづいて祈りはじめた。私はその後姿を見ながら、ゲッセマニの園でイエズスが「父よ、思召ならば、この杯を我より取除き給え、さりながら我心のままにはあらで、思召成れかし」と祈り給う御姿を黙想していた。やがて妻は祈り終って私の前へ座った。そして「生きるも死ぬるも、天主の御栄のためにネ」といって、にっこりした。

それからの妻は、いよいよ朗らかに、ますますけなげに働いていた。私はこの大きな打撃にひるまぬ妻をみるたびに、わが亡きあとの家は大丈夫と安心をして、専心研究の仕上げに没頭した。そのころ私は尿石の中の原子配列をしらべているのだった。

八月八日朝、空襲警報が鳴っていた。私はにこにこ顔の妻に見送られて家を出た。やがて弁当を忘れたことに気がついた。そしてわが家へ引返した。そこで思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見た。――

それが別れだった。その夜は防空当番で大学に泊った。あくれば八月九日。一発の原子爆弾は、私たちの頭上に破裂した。――あの機械もこなごなに砕かれて焼けた。妻も家もろともこなごなに砕かれて焼けてしまった。のっぺらぼうの原子野の、防空ごうの中に、重傷を三角巾で巻いてころがっている私、それは全く無一物となり、全く孤独となり、慢性の原子病に、さらに加えて原子爆弾の中性子による急性原子病を併発し、完全な廃人となっている私であった。

――だが、私は参ってしまったのではなかった。私は無一物の中から、新しい力の無尽蔵にわき出るのを感じたのである。「生きるも死ぬるも天主の御栄のためにネ」といった、あの夜の妻の言葉が、いまこそ私に新しい世界をひらいてくれた。私の肉身はすでに廃物である。しかし私の霊魂は自由自在に活躍する。いや、私は霊魂のみとなって活躍するというべきであろう。

原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。

さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

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※永井隆氏の生涯は「長崎市永井隆記念館」のウェブサイトでご覧ください。

※本記事には、今日では不適切とみなされることもある語句が含まれますが、執筆当時の社会情勢や時代背景を鑑み、また著者の表現を尊重して、原文のまま掲出します
※見出しは読みやすさのため、編集部で新たに加えています 


永井氏の著作から生まれた名曲『長崎の鐘』