病床で、子どもたちと語らう永井隆氏
75年前の8月9日、長崎に落とされた原爆により、多くの人々が犠牲になった。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で放射線医学を研究していた永井隆氏(1908‐1951)は、爆心地に近い同大学内で被爆して重傷を負い、後遺症に苦しむことになった。また、最愛の妻も原爆で命を落とす。のちに永井氏はその体験を『長崎の鐘』『この子を残して』に綴った。終戦から2年経った『婦人公論』1947年11月号にも、永井隆氏の手記が寄せられていた。「私の一生もすりこぎだった」と書く心情はーー。ご遺族の許可を得て、本手記を公開する
第二の原子爆弾をうけて満2年。まだ廃墟のままの長崎市浦上天主堂の焼け跡のひとむねに自ら宿命の原子病に骨髄をおかされながら、正規の課題「原子病概論」の口述をすすめておられる永井隆教授は、昭和15年、母校たる長崎医大物理療法科助教授となり、昨21年1月教授に昇進した。いまだ40歳の学究であり、また同時に敬けんなクリスチャンである。「原子病の犠牲は私で終わらせたい。死んだら私の体は解剖台にのせてもらいたい」と、自らの肉体を、揺籃期にあるこの学問の研究材料としてささげることを決意した永井経教授の、科学者としての不屈な闘志と冷静さにはただ頭の下がる思いがするのである。(編集部/当時の誌面より)

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今日も生きている

カーン、カーン、カーン……
静かな原子野に鐘が鳴り始めた。向うの丘の天主堂から朝のお告げの鐘が鳴りわたって来るのである。私は床にねたまま、つつしんで十字を切り、朝の祈りをとなえる。

「……我の生きながらえて今日に至れるは、げに主の賜物なれば、この日を以て全く主につかえ、我がすべての思いと、言葉と、行いと、苦楽とをことどとく主にささげ奉る。願わくは、我をして、何事も主を愛する精神を以てなさしめ、一に主の御栄えをあげしむるように、聖寵(せいちょう)を垂れ給え……」

香台のガラス窓から朝の光がさしこんで、十字架がくっきりとおがまれる。その前に立つ白い聖母像を仰ぎながら、あれほど深くキリストを愛し給うた聖マリアの御心を黙想する。

今日も生きている。――このことを私はふしぎにおもうほどだ。われと我が五体をさすってみれば、骨はそれぞれ数えられるばかりにやせ衰え、身動きも自由ならず、病床についたきり既に一年余り、死はたしかに迫っているのだが、とにかく今日は、この通りまだ生きているのだ。

今日もまた生きてめざめぬ玉の緒の命尊く思ほゆるかも

天主の御栄えのために、この細々とした命の限り、今日もまた「原子病概論」を書き続けよう。ひざのあたりの骨は痛むけれども、さいわい熱はひくいようだ。午後になって38度を越さなければいいが、――

玉の緒の命の限りわれは行くしずかなる真理探究の道

ゴリゴリゴリ……台所でばあさんがみそをすっている。こうして寝ていながら、おいしいみそしるを頂けるのも隣人のお情だ。このキリシタン村の人々のやさしい心をしみじみありがたく思う。香の高いみそしるで、また午前の元気は出るであろう。――ゴリゴリゴリ、すりこぎの音が快くきこえている。

すりこぎ――私はふと、すりこぎについて考えた。毎朝いちばん早く仕事をするのはすりこぎだ。あれがなかったら、朝御飯のみそしるの味は落ちる。あの不細工な、何のかざりもない一本のぼう。みそをゴリゴリとすりつぶしたら、あとは戸だなの裏にひっかけられて、誰からもかえりみられない。何年か使われると、すり減って短くなって、役に立たなくなって、かまどの下へ投げこまれ、みそしるを煮る火となって、おしまいだ。誰からも尊敬されないすりこぎは、われと我が身をすり減らさなければ仕事ができないのだ。ゴリゴリゴリ、ばあさんがみそをすっている。すりこぎはその音のする毎に少しずつ少しずつ短くなってゆく。