十二
庭の隅に小さな光を見た、と思った。
え、蛍?
思わず腰を浮かし、目を凝らしていた。
馬鹿な。どうかしている。
すぐに腰を下ろし、目を伏せる。
蛍が飛ぶ時季でも時刻でも場所でもない。もっとも、吉原なら、冬の最中に作り物の蛍を飛ばす、そんな芸当ぐらいやってみせるかもしれない。
落ち着くんだ。おたおたするんじゃないよ。
おゑんは自分を叱り、居住まいを正した。
「先生、その、お定という女はかなりの歳ではあったのですな」
平左衛門の口調には僅かの乱れもない。
「ええ、四十路は超えていたと思います。でも、白髪の老婆じゃありませんでした」
「では、米沢町の女はお定ではないと思われますかな」
「言い切れないと思います」
自分の声が乾いて、かさついている気がした。唇もだ。
「お定さんでないようにと祈りたくはありますが……違うとは言い切れないでしょう」
「越冬虫ですか」
「ええ、川口屋さんも甲三郎さんもあたしも、自分の目で見ていますからね。越冬虫を薬種とした薬を飲んで、いえ、飲まされて、人がどうなったか」
平左衛門も甲三郎も微動だにしない。けれど、頭の中には、越冬虫の事件に巻き込まれ死んでいった女たちが浮かんでいるはずだ。
命も若さも吸い取られ、枯木のようになって死んでいった女たちの姿が。
「万が一、この件が越冬虫絡みであったとすれば、そこに光陵が関わってきますかな」
平左衛門はやはり一筋の乱れもない口調で、問うてきた。女たちのどんな死に様が浮かぼうと、それが吉原惣名主の面を曇らせることはない。
「わかりません。ただ、光陵が越冬虫を知ったとすれば、手に入れたいと強く望みはするでしょう。そして、その望みのためなら人を殺すことも辞さない。そういう男であるのは、確かでしょうね」
「ちょっと、待ってください。先生」
平左衛門が眉を寄せる。僅かな情の揺らぎが現れる。あまりに僅か過ぎて、その情が何かまでは読み取れない。
「越冬虫に纏わる全ては吉原の秘中の秘です。決して、大門の外に出してはならず、出すことを許されぬものです。それを、光陵が知っていたとなると……」
「吉原の内から漏れた、ということでしょうか」
平左衛門が目を細め、おゑんを見やった。
「先生の周りから漏れたのかもしれません」
「あたしの? それはあり得ませんね」
「なぜです?」
「あたしの周りで、越冬虫のことを知っているのは、二人のみ。末音とお春さんだけです。二人とも、越冬虫という薬種を取り扱う恐ろしさと難しさを解してますよ。骨の髄まで、ね。あれが、どれほどの効能と毒性を持つか、わかっているんです。牙も爪も持つ獣をどう飼い慣らすか、その術をあたしたちは今、必死で探っております。そういう者が、誰であろうと他人に漏らすわけがありません」
「先生、お言葉を返すようですが、それは些か甘いのではありませんかな。この世に絶対なんてことはそうそう、ございませんよ。先生なら、よくご存じのはずですが」
「ええ、存じております」
絶対と言い切れる、そんなものは、どこにもない。十割の正義も不正義もない。十割があるとしたら、生蕎麦(きそば)ぐらいだろう。けれど……。
「けどね、川口屋さん。光陵はあたしの身辺を探っているじゃありませんか。あたしに未練があるわけでも、興を持ったわけでもない。それなら、吉原絡みでこそこそする要はありませんからね。光陵は、あたしと越冬虫がどう関わり、あたしが何をどこまで掴んでいるか知りたくてたまらないのですよ。あたしから引き出せるものを、見定めたいのです。とすれば、まだ、あたしを見定めていないってことになりゃしませんか。末音とお春さん、あの二人が……あたしを含めて三人が秘密を漏らすことは絶対ないとは言い切れない。そうかもしれません。ですがね川口屋さん、いえ、惣名主。今回だけは断じて構わないはずです。光陵が越冬虫を知ったのは、間違いなく吉原筋だとね」
平左衛門が黙り込む。それから、抑揚のない口調で告げた。
「吉原のどこかに穴が開いて漏れているのなら、その穴は、すぐさま塞がねばならん。そうだな、甲三郎」
「へい」
「穴に心当たりはあるか」
「今のところ、見当がつきやせん。けれど、越冬虫のことを知っている者は、ごく限られておりやす」
「そうだ、ごく限られた者しか知らん。おまえとわしを含めてな」
吉原の惣名主も首代を束ねる男も除くことなく、疑い、探らねばならない。
平左衛門は、そう告げたのだ。
甲三郎が無言で点頭した。
「先生の言う通りだとすれば、由々しき事態です。穴を見つけ塞ぐために、吉原は吉原の則をもって動きます。それで、よろしいかな」
「承知いたしました。あたしが口を出すことじゃありませんからね」
大門の内のことに、大門の外からの口出しなど許さない。
吉原の則とは、そういうものだ。
よくわかっている。口を出す気もない。おゑんにはおゑんで、自らの思案と則で動かねばならぬことがあるのだ。
それを言葉にする。
「川口屋さん、もし、もしも……米沢町の死人がお定さんであったのなら、光陵は試してみたのかもしれません」
甲三郎の肩が一度だけ、ひくりと震えた。平左衛門は眉間の皺を深くする。
「試みた……越冬虫の力をですか」
「ええ」
「生きている人間を使って試してみたと……」
「ええ。光陵なら、それくらいはやるでしょう。義理とはいえ兄二人と母親を殺した男ですからね。あたしは、その場を直に見たわけじゃありませんが、おそらく顔色一つ変えぬまま、三人を殺ったと思いますよ」
平左衛門はもう一度、煙管を取り出した。手の中で二度、回す。
「先生に、龍堂の死を報せたのも光陵なのですか」
「そうです。倒れたときも亡くなったときも律儀に報せに来ました」
(この章、続く)












