竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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 雨が降っていたと思います。
 雨上がりは蛍がよく飛ぶと、患者と話した記憶がありますから。
 ええ、子を産んだ患者です。父親になる男は行方をくらましてしまったけれど、どうしても産みたい。産んで育てる。そう言い切った十六歳の患者です。母子共に元気で、憂いのないお産でした。あたしは、良い気持ち、というか、浮かれ気分になりましてね、台所で一人、酒などを飲んでおりました。
 小さな湯呑に、ほんのちょっぴりだけですよ。
 その酒のせいか、雨音のせいか、浮かれ気分のせいか、光陵に気付くのが遅れました。
 気付いたときには、光陵は既に勝手口に立っておりましたよ。そして、開口一番、
「よう、おゑん、上機嫌だな」
 と、まるで気が置けない友人のような挨拶をしましたっけ。
 光陵はそういうことが、さらりとできる男なのです。
 直ぐで優しいだけでなく、愛嬌があって、人懐っこくて、たいていの者とすぐに打ち解けることができるのです。正直、羨んだときもありましたね、あたしには、どうがんばったってできる芸当じゃありませんから。
 でも、あたしは光陵の姿を見て、笑む気にはなれませんでした。逆に身構えちまいましたよ。ええ、やはり、今より若かったですからね。内心の動揺を隠せるほどに笑むなんて、無理だったんです。
 は? 今? ふふ、川口屋さん、不意に一太刀あびせないでくださいな。そうですね、今ならまあ、何とか凌げますかねえ。動揺も戸惑いも驚きも、きれいに隠して笑えるかもしれませんね。「ええ、今日はよい気分でね。酒など酌み交わしますかね」なんて、さも嬉しげに言える気もしますよ。
 ただ、光陵を恐ろしいと思う気持ちは、昔も今も変わっちゃあいません。
 そうです。あたしは、光陵の、もっといえばあの男が杉丸と名乗っていたころから、その恐ろしさに気付いていたんですよ。
 猫のおかげでね。
 はい、猫です。天水桶の陰で鳴いていた縞の子猫です。その猫が光陵……そのころはまだ杉丸でしたが、その手を引っ掻いたのです。拾ってから一月も経っていなかったでしょうかね。杉丸が餌の入った椀を差し出したとき、驚いたのか、お恵みに焦ったのか、子猫が爪を立てた。子猫にはよくあることですが、もしかしたら、あの猫は驚いたわけでも焦ったわけでもなく、怯えていたのかもしれません。杉丸に怯えていたのかも……。
 杉丸は手の甲に薄い二本の傷を負いました。目を凝らさないとわからぬほどのものです。傷は膿むでなく、血が流れるでなく、三日も経たず綺麗に治ったのではないでしょうか。
 ただね、杉丸が呟いた、その声をあたしは聞いたんです。杉丸の後ろに立っておりましたから。どうして、そこに立っていたのか、覚えてはいません。呟きを覚えているだけです。「恩を仇で返すのか。ならば、いらぬな」と。
 ええ、ただ一言でした。でも、何と言いますか……あたしはそれまで、あんなに冷え冷えとした一言を聞いた覚えはありませんでした。心身が凍り付くようで、その場から走って逃げました。それだけです。あのとき、あたしは杉丸の恐ろしさを生々しく感じたのだと思います。え、猫ですか。いなくなりました。
 あたしね、川口屋さん、その猫を連れ帰ろうと考えていたんですよ。杉丸の傍に置いておいてはいけないって、子どもなりに……いや、子どもだからこそ、わかったからです。
 でもあくる日、日野家を訪れたときは、猫は既におりませんでした。
 はい、おりませんでしたよ。どこにも、ね。
 それだけの話です。でも、それだけの話で十分でしょう。今、ここで、川口屋さんと甲三郎さんが杉丸に出会ったとしたら、何を感じ取るでしょうか。そんなことをふっと考えてしまいました。
 あの雨の日、光陵が笑みを浮かべて現れたとき、あたしは身体が強張りました。背筋に冷たい汗が流れたのを思い出します。
 光陵は屈託のない、明るいと言っても差し支えない笑顔で、あたしに告げました。
「おゑん、先生が死んだぞ」
 と。“亡くなった”ではなく“死んだ”と告げたのです。笑みながら。
「あんたが、殺したの」
 あたしは、とっさにそう返していました。本気でそう思ったのです。光陵は笑みを大きくしました。からからと声を上げて、笑いました。
「おいおい、何てことを言うんだ。先生は病で死んだんだ。あっさりと、な。そんなに苦しまなかったさ。だから、まぁ、よかったよな」
「あんたが殺したんじゃ……ないの」
「だから、そういう物騒な妄想はよしてくれ。変な噂でも立ったら、どうしてくれるんだ。せっかく報せにきてやったのに無礼にも程がある。まっ、昔から恩義も礼儀も知らぬやつだったがな」
 そのときね、川口屋さん。あたしの頭の中に響いたんですよ。杉丸の呟きが。
 恩を仇で返すのか。ならば、いらぬな。
 あの呟きがね。もっとも、あたしは、杉丸に何の恩も受けてはいませんでしたが。
「先生が亡くなって、あんたはどうするの」
「おれ? 今まで通りさ。医者として働く。何も変わらない」
「でも、先生がいなくなったら、療養所の長は若先生になるのだろう」
 あたしの一言で、光陵の顔色が変わりました。表情も変わりました。
 笑みが消え、双眸がぎらつき、口元が歪みました。
 恐ろしい形相でしたよ。光陵は整った顔つきをしておりましたから、歪むと、その歪みがより醜く、あからさまに表れるのです。
 整っているからこそ醜い。一旦崩れると、醜悪さが剥き出しになってしまう。
 おもしろいものですね、人の姿とは。
 でも、その醜さは一瞬で消えました。
「さあね。それは、わからんさ。療養所を含め先生の仕事を、あの愚鈍なやつらが継げるとは思えんからな」
「あんた前々から、そう言ってたけど……。継げなかったら、どうなる?」
「まあ、表面上は何とか取り繕うだろうな。今、義母も義兄たちもそっちに躍起になっている。見ていて、滑稽極まりないな」
 どう取り繕うのか、取り繕えるのか、あたしには考えが及ばなくて首を傾げました。
「実はな、亡くなる前に、おれは先生から引導を渡されたんだ。おい、おゑん」
「なに?」
「おれにも酒をくれ。雨の中をせっかく来てやったんだから、酒の一杯ぐらい馳走しても罰(ばち)は当たらんだろうが」
「来てくれと頼んだ覚えはないけれどね」
 あたしの憎まれ口など意に介さず、光陵はまた楽しげに笑ったのでした。
「相変わらずだな、おゑん。けど、おれは、おまえのその不愛想で愛嬌の欠片もないところが気に入ってるんだ」
 床に座り込み、湯呑の酒を一気に飲み干し、光陵は壁にもたれました。

(この章、続く)

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