秀吉と利休の仲が険悪化
秀長は天正19年(1591)1月に亡くなりますが『武功夜話』(尾張国の土豪・前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜。偽書説あり)には秀吉との仲が険悪化していた利休の身を案じる秀長の姿が描かれています。
同書には秀吉が利休に怒りを募らせた理由については「詳細計り難く候」とあり、諸説紛々していたと書いています(例えば利休が所持していた茶道具を秀吉が所望したが利休が断った。秀吉と利休に茶道に対する見解の相違が見られた。大徳寺三門楼上に利休木像を安置したことについて秀吉側近の讒言があったなど。利休切腹の理由については定説はありません)。
そして秀長は秀吉が一時の怒りにまかせて利休を処罰したとしたら、それは「不徳の御仕置」であり「天下人の所為には非ずなり」とまで評しています。
これは秀長が秀吉に直言したのではなく、大和郡山城に見舞いに訪れた前野長康に対して話したものでした。

