昼休憩から戻ると、敦子はそのまま事務所で新人研修を行った。分厚いマニュアルをめくり、福来屋全館で共通する接客のルール、会計時の言葉づかい、配送の手順、地下冷蔵庫の使用方法、万引きやカスタマーハラスメントに遭遇した際の対応等をスタッフ一人一人の理解度に合わせて説明する。ここが初めてのアルバイト先だという大学生は、真剣かつ不安そうな表情で小さな手帳にメモを取っていた。―自分があの小さな手帳を使わなくなったのはいつからだろう?
初めて勤めたホームセンターでは取り扱う商品が幅広い分、覚えることも多く、注意事項をびっしり書き込んだ手帳を二冊、いつも従業員用のウエストポーチに入れて持ち歩いていた。その店舗では配属されたばかりの若手社員とベテランのスタッフのあいだに溝ができていて、でもそれはどこの店舗でも珍しくないことだと今はわかる。作り笑顔で場を乗り切ろうとする不器用な社員も、いつも仏頂面で話しかけにくかった雑談が苦手なスタッフも、学生アルバイトだった敦子に対してはそれぞれの立場から親切に仕事を教えてくれた。彼らの苦心、工夫、指導の際に少し声を明るくしてくれた気づかいが、指導をする側に回った今も、自分を助けてくれているように感じる。
研修を終えて売り場に戻ると、フロアを回遊するお客様の数がぐっと増えていた。夕飯の惣菜を買いに来た人、人気の焼菓子をまとめ買いする観光客、取引先に持参する手土産を探す会社員、さらにクリスマスケーキの予約やお歳暮の相談など、様々な雰囲気のお客様が訪れている。
オフィス街のまっただ中にある福来屋日本橋本店の食料品フロアは、夕方から閉店時刻にかけてもっとも混雑する。しかも今はギフト需要の高いクリスマスシーズンで、他の時期よりずっと客数が多い。閉店までの二時間は、出られる社員はみんな店頭に立って全力でお客様応対に当たった。長く延びた列を整理し、クレジットカードが停止されていたお客様にカード会社への連絡をすすめ、既に失効しているポイントは利用できないことをお叱りを受けながら説明する。アレルギー対応商品の原材料を調べ、駆け込みでおせちを探していたお客様を専用カウンターに案内する。上がれそうな早番社員やスタッフには上がってもらい、目標達成が心もとない売り場には人を増やして、試食販売やお声がけを行う。テレビで紹介されてたあの商品ってどこに置いてます? このアプリのキャンペーン割引って使える? トイレどこ? 少し歩くだけで積み上がるお問い合わせをテンポよくさばき、お客様のお買い物の流れが滞らないように支え続ける。
頭も体もめいっぱい動かして、なんとかやりくりできていた場の圧力が、ふと緩んだ。
気づけばショーケースはあらかた空になり、残り少ない数品は値引きがされて、仕事帰りのサラリーマンが手に取っている。どうやらピークを抜けたようだ。お客様から呼びとめられる回数が減り、商品が完売してレジを締める店舗も出始めた。閉店十五分前を告げる「蛍の光」が流れ、フロアに残るお客様が早足で館を去っていく。
最後のお客様をお見送りし、今日の営業が終わった。閉店時刻をもって、節電のためにフロアの照明が開店前と同様に絞られる。
棚がすかすかになった薄暗い売り場を眺め、敦子は深く息を吐いた。
今日もなんとか乗り越えた。まるで、大きな嵐が通り抜けたあとみたいだ。
とても疲れているのに、少し寂しい。閉店作業のたび、ぼんやりと不思議な気分になる。
(つづく)
