古関裕而さんの長男・古関正裕さん

父を天才だと思うのは、子どもの頃から独学で作曲を学んだというところです。今の時代とは違い、家庭にピアノもなかったし、学校にもロクな楽器はなかった。そんな環境で本だけで勉強し、よくシンフォニーまで書けたなって。

もちろん、メロディ1本だけなら、楽器を使わなくても、僕だって作れます(笑)。でも、主旋律に和音やコードを付ける場合はやはり楽器を使わざるをえない。特にオーケストラ編成の楽曲ならば、どの楽器がどういう響きになるのかを実際の楽器で確認したくなるのが当然です。でも、父の場合は、楽器がない環境でもシンフォニーが書けたというのが本当にすごい。それであの時代に国際作曲コンクールで入賞するんですから、やっぱり天才なんですよ。

長年舞台でコンビを組んだ劇作家で作詞家の菊田一夫さん(右)と

なぜ留学しなかったのか。今となってはわかりません

ドラマでは、結婚のために留学をやめて、大物作曲家・小山田耕三先生の後押しでコロンブスレコードに入ると描かれていますが、実際のところは僕らもよくわからないのです。父は福島にいた頃、曲と手紙を、小山田のモデル・山田耕筰先生に送っていたそうです。山田先生が、父の留学に対して懐疑的だったという話もあります。結局、プロになるためコロムビアと契約したので流行歌の作曲もしましたが、本当はクラシックのマーチやシンフォニーを作りたかったので、映画や舞台の音楽を作るほうが好きだったのだと思います。

勉強家でもあり、作曲家としてそれなりの地位を築いてからも、世界の民謡やクラシックのレコードなどを、映画や舞台の仕事のためによく聴いていました。中近東の民族音楽などが好きだったみたいです。

忙しいときは楽譜を「縦」にどんどん書いていました。たとえば、オーケストラ用の曲を書く場合、普通はヴァイオリンならヴァイオリンの主旋律のスコアを最初に全部横方向に書いてから、そのメロディの下に他の楽器のスコアをパートごとに書いていきます。

でも、劇作家の菊田一夫さんと組んで舞台用の音楽を作っていたときなどは、菊田さんの脚本が上がってくるのが本番ギリギリなので、幕が開くまでの2日間で徹夜して曲を作らねばならないこともしょっちゅう。そんなときは完成した譜面を1ページずつ、いち早く写譜屋さんに渡す必要がある。

それで譜面を「縦」に書いていたのです。もっとも、父の場合は、頭の中ですでに曲ができあがっていたので、紙に写す作業というか、そんなに苦ではなかったのかもしれません。「曲が自然と湧いてくる」と言っていたので、生涯に5000曲もの楽曲を作ることができたのでしょう。

〈後編につづく