1964年の東京五輪で選手を奮い立たせた「オリンピック・マーチ」、高校野球のシンボルである「栄冠は君に輝く」、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」──。5000曲もの作品を世に送り出した作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)さんと、彼を支えた妻・金子(きんこ)さんをモデルにしたドラマ『エール』。偉大なる作曲家と声楽家を目指した妻の長男である古関正裕さんが、在りし日の両親について語ってくれた。後編は母の思い出から…(構成=内山靖子 撮影=本社写真部 写真提供=古関正裕さん)
何事にもまっすぐで全力投球
父が穏やかな性格だったのに対し、母のほうはいわゆる芸術家タイプ。感情の起伏が激しくて、僕たち子どもを叱るのも褒めるのも母の役目でした。僕は2人の姉とは一回り以上年が離れて生まれた末っ子長男だったので、ものすごく可愛がってくれましたね。それはもう、うっとうしいくらい(笑)。いつまでも子離れせず、中学、高校の頃は、母の過干渉がうるさくて仕方ありませんでした。
夫婦仲はよかったんですが、なにせ母はやきもち焼きでしたから。父がある若い女性歌手の名付け親になったときも、嫉妬で結婚前に父からもらった手紙の一部を燃やしてしまった。そのせいで、すべての手紙が残っていないんですよ。
何事にもまっすぐで全力投球。愛情ゆえに家族のことも放っておけない人だったので、僕の娘が生まれたときも、子育てにあれこれ口出しして妻がまいってしまった。仕方なく、娘が3歳のときに両親との同居を解消し、僕たち家族は別の家で暮らすことにしたんです。
跡取り息子でしたので、両親は僕には音楽の“英才”教育をしたかったようですね。小学校に入ると、学校の近所にあるピアノの先生のお宅に連れていかれてレッスンを受けることになりました。町のピアノ教室かと思いきや、実は著名なピアニストの先生で。レッスン室に入ると、音大に通っているお姉さんたちがずらっと並んで待っている。そんななかで、小学校1年生の僕がバイエルを(笑)。習うならいい先生に、と母は思ったんでしょうけど、今思えば、いくらなんでもハイレベルすぎますよ。