「仕事の合間を縫って作品を読み直し、参考文献にあたり、私なりの解釈――というか妄想を(笑)書き連ねていく時間は、本当に楽しいものでした。」(撮影:本社写真部)
大学で日本文学を専攻し、翻訳された日本の古典文学を純粋に物語として楽しんだというイザベラ・ディオニシオさん。「イザベラ流超訳」で、苦手意識を持っていた日本の古典文学の魅力を再発見してもらえればと語ります。(構成=山田真理 撮影=本社写真部)

平安時代の物語をテレビドラマのように楽しんで

今は昔、ある娘がヴェネツィア大学の日本文学コースに入学しました。それは高校ではダンテに夢中だった文学オタクの私。もともと言語に興味があり、ちょっと変わった言葉として日本語を学んでみようと考えたのです。大学では、歴史に沿ってまず古典文学から勉強を始めます。もちろん日本語は読めませんから、イタリア語や英語に翻訳された作品を片っ端から読んでいきました。

私にとって幸いだったのは、日本の皆さんが苦しんだという古典の「文法」「丸暗記」「テストに出る」などの要素を抜きにして、純粋に物語として古典文学と出会えたことでした。同級生と夜、運河沿いの安いバーでコピーした文献を前に、「光源氏ってサイテーじゃない?」などと、テレビドラマの感想でも話すように作品について語り合ったものです。

留学した日本の大学では現代文学を専攻しましたが、古典も傍らに置いて親しんでいました。たとえば恋に悩んだときに『蜻蛉(かげろう)日記』を開いて、作者の藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が夫への嫉妬に苦しむ姿に「こうはなりたくない。でも気持ちはわかる」と心を寄り添わせてみたり、『更級(さらしな)日記』を書いた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)に、自分と同じ物語オタクの気質を感じて共感したり。

でもそれは、自分だけの密かな楽しみ。10年ほど翻訳会社で働いていますが、職場は主に産業翻訳・技術翻訳を扱う会社なので、「古典大好き!」といったディープな会話はできません。しかし5年ほど前、たまたまスキー旅行で一緒になった人が私の話を面白がって、ウェブ雑誌の編集部を紹介してくれました。そこでの連載をもとに生まれたのが、本書です。

『平安女子は、みんな必死で恋してた イタリア人がハマった日本の古典』著:イザベラ・ディオニシオ

仕事の合間を縫って作品を読み直し、参考文献にあたり、私なりの解釈――というか妄想を(笑)書き連ねていく時間は、本当に楽しいものでした。たとえば私は大学院で小説家の森茉莉(まり)を研究したのですが、その時から「彼女と清少納言が同じ部屋にいたら、どんなに会話が弾むだろう」と想像していたのです。ゆるぎない美意識、無気な意地悪さなど、それぞれの作品を引用しながら比較をしてみました。

おそれ多くもダンテ先生を「こじらせ男子」と呼んで、ヨーロッパと日本の古典文学の恋愛や女性の描き方の差について考えた章もあります。ヨーロッパの古典文学では女性は遠く憧れる存在で、たとえばダンテのミューズだったベアトリーチェが何を考え、どんな女性であったかはまったく描かれていません。

日本は男女が歌を贈り合い、そこから相手の人柄や思いを読み解き、それに応じて返事を書くといった双方向のコミュニケーションが育まれていたのとは、大きく違いますよね。

もう一つ楽しんだのが、「イザベラ流超訳」です。作品の魅力が凝縮された一場面をピックアップして、原文にあたりつつ単語の意味を調べたうえで、私なりの味付けで訳してみたもの。『紫式部日記』の辛辣な人物評を、給湯室でのガールズトークのように解釈したのは、われながらうまくいったと思っています。(笑)

ウェブ連載中から、「紹介された作品を夫婦で読んで、感想を語り合うのが定年後の趣味になった」という嬉しい感想もいただきました。学生時代のトラウマで苦手になった人もぜひ、本書をきっかけに古典の魅力を再発見していただけたらと願っています。