撮影:山崎デルス
息子デルスの、美ら海水族館のイルカに会いたいという希望から沖縄で夏を過ごしたヤマザキさん一家。美しい自然や観光地ではない、もう一つの沖縄の姿に出会って感じたことは――(文=ヤマザキマリ 写真=山崎デルス)

みんなこの海で泳ぐのが大好きだった

リスボンに暮らしていた頃、日本の友人から届いた一枚のDVDに、沖縄の美ら海(ちゅらうみ)水族館で飼育されている一頭のイルカのドキュメンタリー番組が収録されていた。

当時11歳だった息子のデルスは、日本のタイヤ会社が幾度も試行錯誤を繰り返して作り上げた人工尾鰭を装着して泳ぐ、フジという名のそのイルカにすっかり惚れ込んでしまい、豚形の貯金箱に入っていた僅かな貯金を差し出すと、夏休みに日本へ戻った折には是非沖縄へ連れて行ってほしいと私に頼み込んできた。考えた結果、デルスの熱意に負けて、私たち家族はその年の夏を沖縄で過ごすことにした。そして、美ら海水族館のある沖縄北西部の本部(もとぶ)町に滞在しながら、息子は毎日足繁くフジのいるプールに通い詰めた。

ただ、来る日も来る日も水族館にばかり通っているわけにもいかないということで、北部の森を探索したり、美しい海岸を見つけてはそこで泳いだりして、日々沖縄の自然を体感した。

そんなある日、滞在先の古民家のすぐ裏手にあるうっそうと樹木や植物が生い茂った八重岳にも行ってみようという話になった。春先には桜の名所になっているほど地元では有名な山なのに、近所のご老人と話をしていると「行っても何もないよ」と消極的なので、それがどうも気になっていた。頂上にあるアメリカ軍の「八重岳通信所」へと続く道路は綺麗に舗装されているが、自分たち以外の車とはまったくすれ違わない。民家も山裾にひっそりと何軒かあるだけで人の気配もまったくない。

「何、あれ?」と突然夫が車を止めた場所には、水色の柵に囲まれた石碑があった。車から降りて近寄ってみると「三中学徒之碑」という文字が刻み込まれている。1945年、鉄血勤皇隊員として動員された10代の少年たち数十名が、米軍との戦闘によりその場で命を落としたと書かれている。沖縄戦の傷跡をこんなところで目の当たりにするとも思っていなかった私は、美しい沖縄に残された残酷な過去と唐突に向き合わされて戸惑い、石に彫られた観音菩薩の前で手を合わせた。隣にいたデルスも、説明を受けた夫も、とっさに私を真似て同じように手を合わせた。

そこから離れてさらに道路を上ると、今度は野戦病院の跡地という表示が目に入った。さまざまな鳥の声と無数の蝶が舞う亜熱帯の植物に覆われたその場所に、米軍との戦いによる多数の負傷者がそのまま取り残されてしまったと錆びて劣化した看板に書かれていた。夫が「ええっ」と思わず悲しげな声を漏らす。地元の老人たちが「行かなくていい」と言っていたのは、観光客が知るべき場所ではないと判断したからなのか。

どちらにせよ、私たち親子はその日以降、沖縄という土地にそれまでとは違った意識で向き合うようになった。古民家の大家さんは本部町から海を挟んだ向かいに見える伊江(いえ)島の出身で、私たちが沖縄を去る前の夜にカツオのお刺身と三線を持って現れ、少しだけ過去の話を切ない歌詞の歌と一緒に聞かせてくれた。「水族館は楽しかったかい」と問われた息子は、少し間を置いてから頷いた。

今年でもう終戦から75年になるが、ここ数年私と息子は何となく夏になると数日間八重岳を訪れるのが習慣になっている。去年は滞在先の今帰仁(なきじん)の浜で網を持った老漁師に出会い、彼に戦争の時のことは覚えてますかと聞いてみた。老人はもういろんなことは忘れてしまったよと黙りかけたが、「でも、戦争が始まる前はみんなこの海で泳ぐのが大好きだった。それだけは覚えてる」と焼けた顔で静かに微笑んだ。

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また歩くその日のために

パンデミックを前に動きを止めた社会。世界を駆ける漫画家・ヤマザキマリも
これほど長期間家に閉じこもり、自分や社会と向き合ったのは初めてだった。
混とんとした日々を生き抜くのに必要なものとは?
ペストからルネサンスが開花したようにまた何かが生まれる?
自分の頭で考え、自分の足でボーダーを超えて。あなただけの人生を進め!