逃げ場をなくす指摘は、理不尽だと思う
1人バス停にたたずんで、今のは何だったのだろうと自問自答した。たしかに優先席に座って、周りの老人たちに席を譲らずにいた私が悪い。だから車内の乗客は私を援護しなかったのだろうと思う。しかし、正しいとしても、あのように怒りにまかせてわめき、周りの人にまで迷惑をかけるのはどうなのだろうか。
平常心を失っている人にむきになって言い返せば、収拾がつかなくなる。あれで良かったのだと自分に言い聞かせたが、あそこまで徹底的に責められたのはかなりつらく、四面楚歌という言葉を実感した。
この出来事を友人や同僚に「ちょっとひどいと思わない?」などと話す気にはなれなかった。本当につらい体験は簡単には話せないものかもしれない。
その数年後、小さかった子どもを連れてバスに乗った時に、空いていた座席に座らせたら、「子どもが座っているなんて、とんでもない。我慢して立たせたら」と老婦人に言われたことがあった。おずおず立ち上がるのを見て満足したような彼女の顔は子ども心にしこりを残したらしく、それ以来、座席に座るのを拒否するようになった。
正しいこととはいえ、逃げ場をなくすような指摘の仕方は、理不尽だと思う。もっと思いやりを持って戒めてもいいのではないか。今でも地下鉄やバスに乗ると、どんなに席が空いていても座ることができない。座ることに罪悪感を覚えるようになってしまった。
一度、ある老婦人に好意で席を譲ろうとしたことがある。ところがその方は、きっとこちらを睨み返し、「私は席を譲られるほど年寄りじゃない」と拒否した。良かれと思ってしたことが仇となった。
譲らなければ責められ、譲ろうとすれば逆に拒否されて、どうしてこんなことでいがみ合わないといけないのか理解しがたい。譲り合いは、気遣いでするものだと思う。
年を重ねて若い人の部類から外れてしまった今、私は説教というかたちではない、若い世代に気づかせてあげるようなアドバイスをしたい。そう考える今日この頃である。
※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。