1963年、日本作曲家協会満5周年の記念に(写真提供:古関正裕さん)

古賀政男との違い、再び

スポーツに関する音楽で古関にとって一番の功績が、オリンピック東京大会に関するものである。

オリンピック東京大会を1年後に控えた昭和38(1963)年、NHKの委嘱で「東京五輪音頭」を作ることとなった。作曲は古関ではなく、古賀政男に白羽の矢が立った。アジアで初のオリンピックを盛り上げる応援ソングであった。

オリンピックの各種競技に倣って、「東京五輪音頭」(作詞・宮田隆、作曲・古賀政男)はレコード各社の競作という形が取られた。古賀は民謡出身で大人気であった三橋美智也が歌うキング盤が1位を取ると予想していた。だが、その予想に反して一位を取ったのは、国民的歌手となる三波春夫が歌ったテイチク盤であった。「東京五輪音頭」は、各社合計で300万枚という大ヒットになった。

昭和38年の紅白歌合戦では全員が合唱し、日活では三波が出演する「東京五輪音頭」の映画も作られた。昭和39年の夏には、どこの盆踊りでも「ハァーあの日ローマでながめた月が、ソレトトントネ、きょうは都の空照らす、四年たったらまた会いましょうと、かたい約束夢じゃない、ヨイショコーリャ夢じゃない、オリンピックの顔と顔、ソレトトント、トトント、顔と顔」というレコードが流れていた。

古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル