これに対して古関は、昭和39年6月に日刊スポーツ新聞社選定の「オリンピック日の丸音頭」を作曲している。日刊スポーツが独自にオリンピックを盛り上げようとしたのだろう。畠山みどり、梶光夫、円山鈴子、大下八郎を動員したが、「ハァー夢にまで見た、みな待ちわびた、オリンピックの幕びらき……パットパット咲け日の丸の花、パットパット咲け世界の空に」という「オリンピック日の丸音頭」はヒットしなかった。

オリンピックを待ちわびて応援する大衆の音頭づくりは、歌謡界の王者である古賀に軍配が上がった。最初の出会いから30年以上が経っても、歌謡曲(流行歌)的要素で勝負する場合、古関は古賀に勝てなかった。しかし、クラシック的要素が求められたとしたら話は別である。古関には古賀では絶対に作ることができない別の大役が待っていた。

 

マーチに対する自信 ──「オリンピック・マーチ」

オリンピックの組織委員会とNHKは、大会の入場曲などを古関に依頼した。この依頼を受けた古関は、とても喜んだようである。古関の長女雅子は、「父が大変興奮して戻って参り、「東京オリンピックの行進曲を書くことになったよ」と母と私に話しました。行進曲を依頼されたという喜びに、父のマーチに対する自信と意欲を、つぶさに感じさせられたのです。私は父の喜びが尋常ではないとその時感じた」と回想している。

古関によれば、昭和39年2月に依頼があり、6月に曲が完成したという。「オリンピック・マーチ」の作曲については、「考えている時間が長く、ペンをとったら一気に書き上げました」、「少しでもこんどの大会を成功させたいという気持で書いたんです」と語っている。「君が代行進曲」や「軍艦行進曲」を参考にしようとは思わず、「私にとって東京オリムピックにふさわしいマーチがどんどん浮かんでくる。私はひたすらこれを書き取った」という。