「本当は、自分が何をしたいのか、自分には何ができるのかがわかっていなかった。もっと言えば考えることさえしていなかったのだと思います」

時代は就職氷河期の真っただ中

私は秋田県で生まれ、1歳の時にツアーコンダクターをしていた父の仕事の関係で東京へ移住し、社会人になるまで両親と一緒に世田谷区で過ごしました。

当時は専業主婦が主流でしたが、母は保育士としてバリバリ働くキャリアウーマン。私は一人っ子なので幼い頃は祖父母と共に両親の迎えを待っていました。いつしか自分も母のように仕事を持って生きていきたいと考えるようになります。精神的にも経済的にも自立していた母はイキイキと暮らしていました。父とは平等な関係性を築き、欲しいと思ったものや、やりたいと思うことがあれば自分の意思で決めていたように見えました。仕事を持っていれば女性は自由に生きていけるかもということを、私は早くから知るようになります。

昭和女子大付属小学校に入学し、エスカレーター式に中学、高校へ。そして大学は英文科に進学しました。母が「これからは英語ができなくちゃダメよ」と勧めてくれたからです。

ところが……。1年の時には学校のカリキュラムでボストンに短期留学したり、帰国後も家庭教師をつけてもらったりしながら自分なりに頑張っていたのですが、専門的なことを学べば学ぶほどわからなくなってきて、成績は悪化の一途を辿ります。そこで日本語ならと進路を少々変更し、日本語の教員免許を取得したものの時代は就職氷河期の真っただ中。就職活動がぜんぜん上手くいかなくて大きな挫折感を味わいました。

今にして思えば、正社員として就職できなくてもインターンやアルバイトとして企業で働くなど、幾らでもやり様はあったはず。実際、バイトで入った会社で景気向上に伴い正社員になったという同世代の人は意外に多いものです。

でも当時の私は途方に暮れるばかりでした。自分がどういう人間であるかとか、自分がどういうことに熱中できるのかといったことを社会の中心で働く人達に伝える術がないと愕然としていて……。でも本当は、自分が何をしたいのか、自分には何ができるのかがわかっていなかった。もっと言えば考えることさえしていなかったのだと思います。