愛された「寄席の講談師」

そして二代目山陽には、演者として魅力がありました。そうでなければ、弟子は来ません。末弟の京子先生が二代目山陽に入門したのは、大師匠が八十九歳の時でした。大師匠は最後まで、若い人を惹きつける魅力を放ち続けていたのでしょう。

師匠の松鯉に、どうして二代目に弟子入りをしたのか、訊いたことがあります。すると、「面白くて、わかりやすかったから」という、意外な答えがかえってきました。堅い時代物を難なくこなすうちの師匠でさえ、「面白くて分かりやすいもの」が胸をうったということは、大きな意味を持つと思います。その点、二代目ほど「寄席の講談師」として愛された人はいないでしょう。同時期に寄席で活躍した先生方にもそれぞれ魅力があったはずですが、二代目は観客に合わせて意識的に芸をチューニングし、最もそれに成功していた。落語のお客様に「講談もいいね」と思わせたことは大きな功績です。

一方で、私などが言うにおよばずながら、講談は奥深いものです。「面白くて分かりやすい」だけの講談師には、それほど魅力を感じません。そういう人しかいない講談界も同様です。その点、大師匠が偉大なのは「面白くて分かりやすい」だけではないことでした。寄席に出たときは落語のお客様に講談の魅力を伝え、講釈場ではきっちりと連続物を手掛ける。

そして、あらゆるネタに手を入れ、実に面白い読み物に仕上げました。時代物は格調がありながら、どこかくだけたところもある。それが絶妙なバランスなのです。軽いところのうまさは絶品で、それは多くの弟子の先生方が口を揃えて言うところです。大師匠の編集・構成能力によって、間違いなく講談の台本はアップグレードされたと言えるでしょう。

「『邪道だ』の非難のなか私は労音寄席、立体講談など次々に斬新なアイデアに挑戦。」(『桂馬の高跳び』より)
「『夏なお寒く……ヒュー、ドロ、ドロ、ドロ……』夏の名物、怪談の一席。演ずるわが山陽一門は、お化けの出没、新工夫で汗だく。右はじの小山陽が後の三代目神田松鯉。」(『桂馬の高跳び』より)