講談師・二代目神田山陽(1909~2000)は、書籍取次業を営む裕福な家に生まれ、ダンスや将棋はプロ級の腕前を誇り、芸者遊びも派手に繰り広げる「若だんな」であった。そんな彼が、実家の豊富な資金で傾いていた講釈場「聞楽亭」を立て直したのを機に、自らも講釈師として高座に上がることに。そして講談界再興のため、さまざま反発を受けながらも改革を進めていく──。講談を愛し、講談に尽くした「革命家」二代目神田山陽の痛快な一代記が出版されたのは1986年のこと。それがこのたび文庫版で復刊した。復刊にあたり、当代きっての人気講談師・六代目神田伯山が〝大師匠〟への思いを綴った。
※『桂馬の高跳び 坊ちゃん講釈師一代記』(著:神田山陽(二代目)中公文庫)の「解説」より引用しています
※『桂馬の高跳び 坊ちゃん講釈師一代記』(著:神田山陽(二代目)中公文庫)の「解説」より引用しています
面識はないけれど「直接触れている」
二代目神田山陽からみると、私は間に合わなかった孫弟子世代です。残念ながら大師匠との面識はありません。芸を生で聴いたことはないし、高座で醸し出す空気も、楽屋の様子も知りません。それでも不思議なことに「私は大師匠に直接触れている」という気がしています。もちろん、テープや映像では二代目に触れていますが、それとは違う、「生の感覚」があります。
考えてみれば、その理由は簡単でした。私はこれまで、二代目山陽の数十名の弟子を通して、大師匠の芸に触れてきたのです。日本講談協会は、二代目山陽が作り出した「分身」と言っても過言ではない組織です。ネタ帳にある読み物にも、そこかしこの見渡す限りの講談師にも、まわりのすべてに山陽の存在を感じます。
では、その二代目の功績とは何か?
まず、多くの弟子を育てたことでしょう。講談師の価値は、芸の上で一流の演者であること、そして、どれだけ優秀な弟子を育てられるかに尽きると思います。
後進の育て方はもちろん様々で、若手に稽古をつける、楽屋で昔話をする、そんな方法もありますが、とにかく師匠・先輩・お客様、上からうけた恩は下の世代に返さねばなりません。現在、東京の講談師の三分の一以上が大師匠の系統の弟子であると考えれば、その功績は計り知れないでしょう。