「第五回内国勧業博覧会紀念 余興動物園飼養動物」より(橋爪紳也監修『日本の博覧会 寺島勍コレクション』平凡社、2005年、38ページ)

大阪・天王寺動物園ではチンパンジーが人気に

このとき大阪市は、東京や京都の動物園に負けないものをつくろうと、そうとうはりきったらしい。原案では敷地4230坪(約1万4000平方メートル)としていたのを、7925坪(約2万6000平方メートル)とほぼ倍にして、動物も追加購入することにした。

同園は大阪府立農学校教諭の飯島儀四郎の手でデザインされ、コンクリート製の岩がある展示場と屋内設備を備えた猛獣舎、大阪市の市章(みおつくし)をあしらった止まり木のあるウの放養場、ウグイスなどを飼育する日本庭園、ホッキョクグマ舎、サル舎などがあった。

一般に公開されたのは1915年で、第1次大戦(1914~18)のまっただなかであった。昭和初期に敷地は2倍以上にふくらみ、柵をとっぱらった動物舎も新たにもうけている。

さらに天王寺動物園には日本ではじめて展示された種が多く、チンパンジー、マントヒヒ、リカオン、イボイノシシ、ベニガオザル、ピューマなどがそうである。とくに1932年から公開されたメスのチンパンジー「リタ」は、人間とおなじふるまいをするよう調教されていて、自転車をこいだり、フォークとナイフを使って食事したり、紅茶をすすったりと、おなじく芸をしこまれたオスの「ロイド」とともに大人気だった(大阪市天王寺動物園 1985)。

人間のまねをするリタ(右)とロイド(大阪市天王寺動物園編『大阪市天王寺動物園70年史』大阪書籍、1985年、26ページ)

動物芸への傾倒は、動物園が、博物館の一部であることをめざした研究・教育施設から、しだいに娯楽施設へと変容していったことを示している。多くの人びとにとって、動物園は珍獣をみるための場にすぎなかったのだ。

桃太郎をモチーフにした箕面動物園

この流れに竿さしていたのが、鉄道会社がオープンした、遊園地つき動物園(ないし動物園つき遊園地)である。鉄道沿線の開発や、人びとの土地への愛着を高めるためにもうけられた。

若生によると、その皮切りとなったのは阪神電気鉄道の香櫨園(こうろえん)遊園地(1907)だった。動物園、博物館、運動場、水上自動車、ウォーターシュートなどのアトラクションと、宴会ができる旅館がセットになっており、ライオン、ゾウ、オランウータンといった人気動物が飼われていた。