これに続くかたちで建設され、とくにユニークなものとして紹介しておきたいのが、箕面(みのお)有馬電気軌道、いまの阪急電鉄がつくった箕面動物園(1910年開園)である。これは自然豊かな箕面の地に娯楽施設をもうけようというものだった。

写真にあるように、赤い「蓬莱橋(ほうらいばし)」をわたって龍宮城みたいな「不老門」をくぐってなかに入るようになっていた。蓬莱とは、不老不死の仙人がすむ山のことで、つまり動物園が一種の異界というかパラダイスみたいなところとして表現されていたことになる。

龍宮城のようだった箕面動物園の入場門(吉原政義編『阪神急行電鉄二十五年史』三有社、1932年、1ページ)

同園には南洋産のオオコウモリやトラ、クマ、ゾウなどが飼われていたが、一部は芸を教えられていたようで、「クマの車まわし」やゾウのおじぎをみることができた。「犬猿の仲」というが、これとは逆に仲良しであるイヌとサルの展示もあった(『大阪毎日新聞』1911年6月4日)。

民俗学者の齊藤純によれば、箕面動物園は昔話に出てくる桃太郎をまつった神社までつくろうとしたらしい。当時は、ゆきすぎた西洋化への反省や、国内の伝統文化を再評価する動き、子どもを新たな消費者ととらえる向きもあって、これらがあわさって桃太郎人気が高まっていた。同園では、桃太郎神社建設のために地鎮祭(土地の神をまつって工事の無事を祈る儀式)までおこなわれたが、神社法にそむくということで許可がおりなかった。

イヌ、サル、キジをしたがえて「鬼个島」を征服するキャラクターは、帝国時代の動物園にお似合いといえなくもない。しかし同園内には稲荷神社、つまりキツネを使いとする稲荷神をまつる場所もあり、そばにはキツネを入れたオリを置き、おまけに売店で稲荷ずしを販売したという。もうむちゃくちゃである。齊藤は、ここには「神や仏まで観客や児童向けのアトラクションに取り込んでいく発想がうかがえる」と述べている。

ちなみに箕面動物園は、この地にはむしろ豊かな自然を残したほうがいいということで1916年に閉鎖されたため、短期間しか存続しなかった(阪急はのちに、宝塚新温泉の遊園地に動物園を建設する)。

これ以外にも、阪神電鉄は第2弾の娯楽施設として、阪神パーク(1929年開園、32年改称。動物芸で有名だった)をオープンしている。大阪電気軌道(近鉄)、九州電気軌道(西鉄)、京成電鉄などもおなじ戦略をとった。こうして定着した「動物園=遊園地」というイメージは、20世紀のあいだ長く存続していくことになる。


人間の野望が渦巻く「夢の世界」へようこそ

動物園は、18世紀末のヨーロッパに誕生した。しかし珍種を集めて展示する「動物コレクション」は、メソポタミア文明に遡るほどの歴史をもつ。近代に入ると、西洋列強は動物を競って収集。動物といっしょに「未開人」まで展示し人気を集めた。果ては「恐竜」の捕獲や絶滅動物の復元計画も登場。異国風建築から、パノラマ、サファリ・パークやテーマ・ズー、ランドスケープ・イマージョンまでのデザインの変遷をたどりながら、動物園全史と驚異の冒険譚を描き出す。