想像して近づいていく

コロナの関係で受賞者発表はZoom画面で行われましたが、受賞が決まった瞬間、信じられなくて一瞬呆然としました。

本屋の開店は午前11時ですが、ニュースで受賞が発表されると、開店前からご近所の皆さんが次々自宅のインターホンを押してやって来る。お祝いに手ぶらで行くわけにもいかないと、畑から抜いた大根やニンジンを新聞紙に包んで持ってきてくれるんです。畑がない人は、冷蔵庫から納豆を出してレジ袋に入れて、「うめぇから」って。(笑)

『JR上野駅公園口』の下地には、この6年間に南相馬で出会ったたくさんの方々の体験や声が間違いなくある。地元の方が「おらほの物語」だと受賞を喜んでくださったのは、本当に嬉しいですね。

私は小説家ですが、たくさんの方の体験を「聞く」という行為は、決して小説と隔たってはいないと思っています。

たとえば震災の朝にお母様が亡くなられたという話から、私はこんなことを想像するのです。葬儀社に電話してもがらず、ご遺体を冷やすために冷蔵庫から氷を出して腋の下を冷やす。そのときどうやって洋服をめくったんだろうな、とか……。話されたことから、話されていないことを想像して近づいていく。

もうすぐ震災10年を迎えますが、10年がどんな時間だったかは人それぞれ違います。身内が亡くなった日の方もあれば、恋人と別れた日である方もいる。まだ昨日のことのように思えるとおっしゃる人もいるし、別の人生を生きているようであの日と今が連続しているとは思えないと語る人もいます。

2011年3月11日というのは、それまでみんなにとって均等であったはずの時間の枠組み──カレンダーのマス目のような──が崩れた日だったと思います。だから「10年たってどうこう」と、私には語れません。

『JR上野駅公園口』も、時間が行ったり来たりする作品です。この本にサインを頼まれると、「時はすぎない」と書くようにしています。それが、「10年とはどんな時間だったか」という問いに対する私なりの答えです。