繰り返し禁止されたのは、皆がパーマをかけ続けたから

なぜパーマネントは真っ先に批判のターゲットになったのか。それは1935年頃に国産機が導入されることで低価格化し、大流行し始めたからであろう。

精動は37年7月、「パーマネント禁止」の決議を出して以降、たびたび女性の「パーマネント禁止」を決定している。また街頭での婦人会によるパーマネント禁止の呼びかけも全国各地で繰り返し行われ、パーマネント禁止のポスターが街のあちこちに張られた。子供たちが美容院の前で「パーマネントはやめましょう」という歌を歌っていたことも、各地の美容師が記録している。

パーマネント・ウェーブをしているところ(『婦人公論』1935年6月号より)
同号の表紙もパーマ女性

しかしながら、驚くべきことに戦争が進んだ1943年の大日本婦人会の大会においても、まだ「パーマネント絶対禁止」が決議されている。これだけの禁止や反対運動にもかかわらず再度禁止を呼びかけなければならないというのは、どういうことか? むしろ、たび重なる禁止は実効性を伴っていなかったということだろう。

実際、精動による「決議」は、精神総動員運動という官製運動の運動方針を決定しただけであり、禁止のための法的根拠はなかった。このため、実際にはパーマネントを続けた業者がほとんどであり、また女性たちも婦人会などの街頭などでの呼びかけにもかかわらず美容院に通っていた。大阪などの大都市ではパーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院も出現しており、順番待ちをする女性たちで店の前には行列ができていた。

さらに驚くのが、各地で「防空壕の中でもパーマをかけた」「空襲でもかけた」という話が頻繁に出てくることである。パーマネント機を使い続けることが難しくなった戦争末期においてもパーマネントの人気は衰えなかったため、茨城の小山テリは「店の裏手にあった防空壕の中へ自家発電機を備えて電力を供給したこともあった」と語っている。