「婦人公論」の表紙より。左が昭和13年(1938)年、右が昭和11年のもの。どちらもパーマネントをかけた女性が描かれている
本日3月8日は、国際女性デーです。そこで、声を上げ続け、自由を勝ち取ってきた先人たちのエピソードを振り返りましょう。「パーマネントはやめましょう」と号令がかかり、「モンペ」は報国の象徴として持てはやされていた戦時下、女たちはどうふるまってきたのか。飯田未希さん(立命館大学教授)の著書『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』によると、「贅沢は敵」と非難を受けても、石を投げられても、女たちはおしゃれをあきらめなかったという

戦中はモンペにひっつめ髪、ではなかった?

戦時期の女性たちの典型的なイメージは、まっすぐな髪を後ろで束ね、モンペをはいた姿だろう。

パーマネントが「禁止」され、モンペが「強制」されたということは、戦時体制の監視と抑圧が生活の隅々にまで行き渡った極めて象徴的な例として記憶されてきた。確かに、「パーマネント禁止」は日中戦争が始まった1937年の国民精神総動員中央連盟(以下「精動」)の精神作興運動の委員会で決議され、大日本国防婦人会(以下「国防婦人会」)などの各種婦人団体もそれに賛同して、地域での反対運動を始めている。

またモンペは、1937年頃から盛んに行われるようになった地域の消火訓練や防空演習で女性たちが自主的にはくようになり、「戦時に相応しい服装」として新聞などのメディアでも盛んに取り上げられた後、厚生省によって42年に制定された「婦人標準服」の「作業衣」として公的にも認められた。同年頃からは防空演習で着用されるだけでなく、地方の女学校では制服になったところもある。

しかしながら、このように「戦時に相応しい」髪形や服装が公的に「決定」されたということは、多くの女性たちがこのような決定に従ったということを必ずしも意味しない。実際には、現在わたしたちが想像するよりもずっと多くの女性たちが戦争中にパーマをかけ、スカートをはいておしゃれを追求していたようである。これは太平洋戦争が始まり、人々が耐乏生活を強いられていたとされる時期においてもそうであった。