「街頭の断髪嬢諸君も今こそ日本女性の黒髪に還れ」

1937年に日中戦争が始まって以降、女性の外見は社会問題として取り上げられるようになった。パーマネントをかけた女性、派手な化粧をした女性、最新流行のスカート姿の女性、派手な和装の女性などが「奢侈的」「享楽的」と名指しされ、新しくできた精動本部に属する男性や女性指導者層、各種婦人会の女性たち、そしてメディアから一斉に批判を受けるようになった。

『婦人公論』昭和13(1938)年3月号に掲載された特集「パーマネント是非」。女優から作家、美容師まで13名の男女が各々の「言い分」を述べた
「パーマネント是非」の特集の右端には、「パーマネント美容室講習所」の広告が見られるのも、当時の世相を表している

新聞では、パーマネントや女性の派手な化粧、洋装姿を批判する読者からの意見文がたびたび掲載された。

『読売新聞』1938年1月17日の「読者眼」で、「日本橋生」という投稿者は「断髪諸嬢に告ぐ」として、パーマネント女性の氾濫を以下のように非難した。

濡れ羽色の黒髪、丈なす黒髪は過去一千年来わが親たちが子供によせた悲願であり、信仰であった。そしてそれこそは日本民族の、殊に大和撫子の誇りであり、シンボルではなかったか。

然るに、いま、巷にはボッブド・ヘアー・パーマネント・ウェーブの雀の巣のような頭をした若い女性が氾濫している。中にはわざわざ薬品で毛を赤くした婦人までが存在する、もしできるならば眼玉を碧くし、皮膚を白ちゃけたサメ肌にし、そしてああ!魂まで入れ替えかねぬ女たちであろうか。(中略)

幸いに当局にも美容院取締りと舶来風俗禁止の意向があるとき、街頭の断髪嬢諸君も今こそ日本女性の黒髪に還れ、貴女がたには次の日本人を作る聖なる“母”の使命があるのだ。