「たとえ残念な別れ方になっても、愛する人にあなたの思いはちゃんと伝わっているから、そのことでどうぞ心を痛めないでねって思うんです。」

 

たとえ残念な別れ方になっても

日記は事実だけを記すもの、正直な気持ちを書かねばならぬというのも先入観に過ぎませんよね。ちなみに、「私」を「彼女」と書くだけで、日常が小説みたいになりますね。コロナでどこへも行けずにもんもんとしていたら、「今日はお気に入りのパリのカフェで一休み」なんて空想の旅を楽しんでもいいじゃない。

毎日が退屈だったら、「素敵な人に声をかけられ、彼の瞳に恋の炎が燃えたのを見た」とか妄想を広げても、誰に迷惑かけるわけじゃなし。死んでから家族に発見されたって、あの世から「びっくりした?」ってクスクス笑って見てればいいんだと思うわ。

妄想のお話でいうと、私は両親やきょうだい、お友だちなど亡くなった人の名前をキッチンに貼って、朝起きたとき「おはようございます」と順番にあいさつします。隣にはVIP席というのがあって、サン=テグジュペリや外山滋比古先生など尊敬する人たち、本棚でしか会えない小説の主人公の名前も貼ってあって、「今日はこんな予定があるんです」「では、行ってまいりまーす」と会話をします。

離れていても死んでしまった人でも、架空の人でも、自由につきあえたら孤独ではない。私はそう考えて生きてきました。

コロナ禍で自由にお見舞いもできず、大切なご家族と会えないままにお別れする人が大勢いらっしゃると思います。その方たちにぜひお伝えしたいのは、亡くなった人とも私たちはつながっているということ。たとえ残念な別れ方になっても、愛する人にあなたの思いはちゃんと伝わっているから、そのことでどうぞ心を痛めないでねって思うんです。

ずるい考えかもしれないけれど、こう思います。愛する人が亡くなっていちばんありがたいことは、もう二度とその人が死ぬ心配をしなくていいってこと。苦しいとか痛いとか、生きられなくて残念とか、そんな苦しみを愛する人はもう味わわなくていいの。