健全からほど遠いアンチ・モダニズム野郎

スポーツ基本法には、「スポーツは、心身の健康の保持増進にも重要な役割を果たすもの」とあります。スポーツが嫌いが高じて、スポーツの理念のようになっている「心身の健康」という言葉も大嫌いになりました。それが顕著になったのは、デザインの仕事に憧れて、デザイン学校に通うようになった頃からです。

当時は1970年の大阪万博が目前に控えていて、スッキリ、スマートなモダニズム・デザインの全盛期でしたが、ぼくは「死のイメージ」に惹かれるようになり、おどろおどろしい表現に魅力を感じるようになりました。母親がダイナマイト心中したことも、スポーツが嫌いになって一人でもの思いに耽るようになったことも、ぼくが表現者になるための必然だと思うようになりました。そして、ぼくが作る情念的デザインで、モダニズム・デザインをぶっ飛ばしてやると思っていました(今思えば、頭がイカれていたとしか思えませんが)。学校を辞めて勤めた看板屋でも、怨念をデザイン化するとか言ってみんなから嫌われていました。

その後勤めたキャバレーの宣伝部でも同じで、ぼくの作るチラシやポスターは、気持ち悪くてほとんど使えないものでした。「こんなチラシで客が来るか!」と、上司にいつも怒られていました。この頃自分で一番の作品だと思っていたのは、今風に言えば路上パフォーマンスとでも言うのでしょうか、素っ裸で町を走るストリーキングでした。真夜中の上野の町を全裸で走り、御徒町の路上で頭からペンキを被り、道路を転げ回りました。自分では「モダニズム野郎がグッスリ眠っている真夜中に、俺は体で道路に情念の絵を描いてやる」と、意気揚々でした。ぼくは融通の利かない、健全からほど遠いアンチ・モダニズム野郎だったのです。