おかみの仕事第一で子育ては二の次だった
私は東京大空襲で、兄をのぞいて家族全員を亡くしました。和竿づくりの名人だった父との縁で、三代目の三遊亭金馬師匠の家にご厄介になり、その家に姑が出入りしていたことから、夫(初代林家三平さん)と結婚することになりました。
長女の美どりが2歳を過ぎた頃から夫は一気にテレビの人気者となり、お弟子も増え、私は姑とともにおかみの仕事に邁進してきました。それと並行して、上から下まで17歳離れた子ども4人を育ててきたのです。
ですから子どもの同級生のお母さんには、「海老名さんはPTAに1回も出てこなかったわね」といまでも言われてしまうの(笑)。運動会などの行事も、ほとんど姑に行ってもらっていて、子どもたちもそれが当たり前と思っていたようです。
夫は女の子に優しかったから、娘たちは父親っ子。「男子厨房に入らず」の世代で家のことは何もできない人でしたけれど、子どもだけは可愛がって、目に入れても痛くないと言っていました。
長男の正蔵は、小さい頃からとにかくイタズラがひどくて。「プロレスラーになりたい」と裸で大暴れするような子で、ときにはお尻を叩いたり、手をぴんぴんとしたり。言葉でっても、まるで効き目がありませんでした。結婚前にも、あんまり夜遅くまで遊んでくるものだから、玄関でゲンコをおみまいしたことがありましたっけ。(笑)
一方で次男の三平は、言葉で説明すると「わかったあ」と言って、次からはもうしない。小学校4年生で父親を病気で亡くしてからは、よりしっかりとした性格になりました。昔から親思いで、嫁にも「泰ちゃん(本名・泰助)は本当に孝行息子ですね」と言われるくらい優しい子です。