座談会が掲載された昭和36(1961)年8月号。表紙は若尾文子さん

20年間の夫婦生活ではじめての口答え

千栄子に追いうちをかけるように、舞台上でもギクシャクし出す。

「それでも芝居のほうで、わたくしとうまくいきを合わせてくれていましたら、まだ芝居に置いてもらったかもしれませんが、それまではパッと出る、呼吸がトントンといきましてちゃんと合うものを、フッと間をはずされてしまうんです。わたくしたちの芝居は、アドリブでパッパッとやってゆくのですから、これでは舞台がつとまりません」(同)

なんども同様な出来事が続き、我慢の限界を迎えた千栄子は、ついに爆発する。

「ちょっとした舞台のしぐさに難くせつけていじめるのです。その度にこちらから部屋へあやまりに行くと、ぼろくそに言って、お前が自分で一膳の飯でもくらえたら、おれは逆立ちして、道頓堀から銀座まで歩いてやるわ、と言いますから、とうとうおしまいに、わたくしあんたさんと別れまして、10ぱいのご飯いただいてごらんにいれます、と申しました。これが20年間の夫婦生活ではじめての口答えです」(同)

昭和26(1951)年、渋谷天外と離婚し、松竹新喜劇を退団した千栄子は、一時消息不明になる。しかしここから「不死鳥のように甦った」と評される快進撃が始まるのだ。

千栄子は座談会の中でこうも語っている。

「結局、唯一の楽しみは舞台だけでした。捨てられた時も、舞台とか芝居がわたくしを救ってくれましたから、熱愛しているものは自分の仕事なのです。わたくしは自分のためにと思って一生懸命つくして、また家庭に捨てられましたが、仕事はわたくしを捨てない」