「なかにし礼の息子」という立場を受け入れるまで

僕が中学、高校の頃は、息子と距離を縮めたかったのでしょう。毎日のように僕をゴルフ練習場に連れて行って教えようとする。でも僕は強制されているみたいで、楽しくなくて――今でもゴルフはあまり好きではありません。

息子とどう接していいのか、よくわからなかったのかもしれません。父なりの愛情表現だったと受け止めています。妹に対しても、父なりに接し方を模索していたように思います。

高校時代、父を見ていて、将来芸能界にだけはかかわりたくないと思っていました。徹夜もしょっちゅうしていましたし、大変そうだな、と。たまたまアルバイトをしたいと言ったら、父から「なかにし礼の息子がコンビニでバイトしているらしい、とか言われると困る」と止められ、父が関係している舞台の制作会社でバイトをすることになりました。

バイト先で父の姿を見かけても、「お父さん」とは呼べないので、「先生」。それ以来、亡くなるまで、先生としか呼んでいません。家にいるときはお父さんと呼ぶようにしていましたが、先生と呼ぶほうが自然だった気がします。

舞台の掃除や楽屋への弁当配りなどの雑務をしましたが、バイトを通して、芝居やコンサートなどライブの魅力を知ってしまった。そこで将来は舞台の制作にかかわりたいと思い、日本大学藝術学部に進みました。

父は僕が大学を卒業したら、音楽のプロデュースや著作権管理をしている日音という会社の社長に預ける算段だったようで。でも僕はそこで生まれて初めて、父に抵抗しました。音楽は父の仕事のど真ん中ですから、どうしても「なかにし礼の息子」と言われます。それは絶対に嫌でした。将来、舞台の演出家かプロデューサーになりたかったので、東宝に入社したのです。

舞台の世界に行きましたが、やはりここでも「なかにし礼」の息子であることに変わりありませんでした。この頃から、「なかにし礼の息子」という立場を受け入れるようになってきました。でも、時代の流れで演劇のありようが変わっていくなかで迷いが出てきて――。父親が60代後半になり、サポートもしたいし、将来を見据えて音楽著作権の勉強もしたほうがいいかなと思い、日音に移る決心をした次第です。

父から「時間があるときにこの仕事やっておいて」と頼まれると、40分後くらいに「できたか」と電話が来る。できないですよ(笑)。でも《大先生》ですから、ほかの方はみんな、頼まれごとはただちにやるんでしょうね。僕がつい、「父親だから」と甘えた気持ちでいると見透かされるので、気を抜けませんでした。

また、僕はときどき、旅関係の文章を書くこともあるのですが、出す前に必ずチェックが入る。「なかにし礼の息子」なんだから、変なものが出ては困る、と。偉大過ぎてライバル心を感じるまでもなかったですが、プレッシャーはありましたね。