この方が田中健二郎さん(『田中健二郎の馬読み―精神性馬券術』中村裕文・著/競馬王編集部・編、白夜書房)

最後の望みを託した競馬でも「申し訳ない」

ぼくが最後に望みを託したのは競馬でした。

浅草で路上生活をしている元祖麻雀プロの田中健二郎さんを、『雀王』のゲストに呼んだ時、拾った100円で大穴を当てて今着ているジャンパーを買ったという話から、競馬の話になりました。競馬は走る直前に馬を見ないといけない、印が付いていても、輸送されている時に疲れてやる気をなくしている馬もいる、データや屋根(騎手)は関係ない、などと話は続き、「勝つ馬にはオーラが出ていて、そのオーラが自分には見える」と田中さんは言うのでした。その言葉で光が差したような気がしました。田中さんと一緒に競馬場に行き、パドックでレース直前の馬を見てもらい、オーラが出ている馬の馬券をぼくが買う。これで借金が返せるのではないかと思ったのです。

この話を人にすると必ず言われるのが、「勝つ馬のオーラが見えるのに、その人は何故ホームレスなのか?」ということです。至極当然な疑問ですが、ぼくはそのことをあまり深く考えてなくて、「種銭がないから競馬が出来ないのだろう」と思っていたのです。後から、そんなに簡単にオーラは見えないということがわかるのですが。

田中さんと初めて競馬に行ったのは、忘れもしない1996年1月13日(土)でした。午前9時30分に東京競馬場のパドックで田中さんと待ち合わせしていたのですが、不覚にも間違って中山競馬場に行ってしまいました。パドックに行ったら誰もいないので間違ったことに気付いて、慌てて武蔵野線で府中本町まで行き、東京競馬場のパドックで田中さんと会えたのですが、2時間も遅刻したので5レースからしか馬券が買えません。11レースまでやって、勝ったり負けたりしてプラス161,000円で終わりました。

翌日の14日(日)は、9時40分に東京競馬場のパドックで田中さんと待ち合わせて、1レースから6レースまでやり、2レースで大穴を当てたのでプラス1,802,500円になりました。その後も調子良くプラスが続き、3ヵ月でトータル700万円ほど勝っていました。

持っていく種銭は最初の頃は100万円でしたが、3、4回目ぐらいから200万円持って行くようになりました。それが1.5倍になった時点で帰るというルールを決めていたので、1レースで目標を達成してしまうこともあり、みんなが競馬場に向かって歩いているなかを、2人で颯爽と帰って行くこともありました(田中さんには勝った金額の1割ほどを渡していました。負けた時は1万円か2万円)。

3ヵ月経った頃から、種銭を10倍にしようと考えるようになりました。つまり2,000万円持って行くということです。それが3,000万円になった時点で帰るわけですから、月に8回行けば8,000万円儲かります。借金なんかあっと言う間に返せます。

そのことは田中さんには言ってなかったのですが、ぼくがそう思い始めた頃から、田中さんの予想が全然当たらなくなりました。田中さんもだんだん焦るようになり、さらに当たらなくなり、200万円がゼロになることも度々ありました。競馬はその年の6月まで続けたのですが、最後は競馬場に行くのも億劫になり、田中さんに100万円渡して1人で行ってもらいました。次の日、結果を聞くため田中さんに会うと、「局長、申し訳ない」(編集局長だったのでそう呼ばれていました)といきなり言うので、結果も聞かずに、その時点で競馬をやめる決心をしました。トータルで1000万円近く負けていたと思います。

あのままギャンブルを続けていたら、どうなっていたのでしょうか。ひょっとしたら死んでいたかもしれません。