以前飼っていた猫のキキちゃん。撮影の6時間後、食べなくなって、動かなくなって死にました。最後まで見ていました(写真提供:末井さん)

死骸だらけの楢山に着いて

村の人から「その歯じゃァ、どんなものでも困らんなあ、松っかさでも屁っぴり豆でも、あますものはねえら」と馬鹿にされたり、孫のけさ吉からも「おばあの歯は三十三本あるら」と言ってからかわれたりします。

おりんはそれまで人にとやかく言われたことがありません。恥ずかしめを受けたくないので、楢山には歯も抜けたきれいな年寄りになって行きたいと、石臼の角に歯をぶつけて上の前歯を2本折ります。これで楢山に行けるのです。

楢山に行く日、おりんは翌日みんなが食べるご馳走の用意を宵のうちにして、家の者達が寝静まるのを窺って、にぶりがちの辰平を励まし、辰平が背負っている背板に乗り楢山に向かいます。7つの谷と3つの池を越えて行く長い道中が壮絶なのですが、おりんは無言で静かに背板に乗って死骸だらけの楢山に着きます。そして、死骸のない岩かげを見つけると、そこに降ろせと合図をします(楢山まいりは喋ってはいけないのです)。辰平が降ろすと、おりんはそこに筵を敷きます。

 おりんは筵の上にすっくと立った。両手を握って胸にあてて、両手の肘を左右に開いて、じっと下を見つめていた。口を結んで不動の形である。帯の代りに繩をしめていた。辰平は身動きもしないでいるおりんの顔を眺めた。おりんの顔は家にいる時とは違った顔つきになっているのに気がついた。その顔には死人の相が現れていたのである。
 おりんは手を延して辰平の手を握った。そして辰平の身体を今来た方に向かせた。辰平は身体中が熱くなって湯の中に入っているようにあぶら汗でびっしょりだった。頭の上からは湯気が立っていた。
 おりんの手は辰平の手を堅く握りしめた。それから辰平の背をどーんと押した。
 辰平は歩み出したのである。うしろを振り向いてはならない山の誓いに従って歩き出したのである。(「楢山節考」)