1927年、ひな祭りのお祝いで集まり、渋沢栄一を囲む息子や孫たち。前列右から2人目が鮫島さん

「戦争を止める努力をなさる方が…」

祖父が有名な人だと知ったのは、亡くなる1ヵ月前ごろから、新聞で祖父の病状──その日の体温や脈拍など──が報道されるようになってからです。学校でも「お見舞い」を言われるようになり、病室から私たちが出て行くと、さあっと新聞記者の方が集まってきて「おじいさまは、今どんな具合ですか?」と取材されました。

亡くなったのは91歳、大往生でした。白い髭の顔が神々しく輝いているように見えたことを覚えています。納棺のときに、石でとんとんと叩いて棺の蓋を閉めるまねごとをしました。そのとき祖父の長女の歌子伯母が、「これで戦争を止める努力をなさる方が、またお一人減ってしまわれた」とつぶやいたのです。

それを聞いた私は、「えっ、世界の戦争を止める? おじいさまってそんな力がおありなの」と驚きました。もしかしたら、あのときようやく、私は祖父という人をしっかりと認識したのかもしれません。

歌子伯母のつぶやきの真意は幼い私には理解できませんでしたが、強烈な印象として残っています。徹底した平和主義者の祖父。世界が平和でなければ人類の幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せとは思えない──そう考えていたことを、私は父から、あとになって教えられました。

日米の国民感情の悪化に胸を痛めていた晩年の祖父が、関係改善を願ってお手伝いしたのが「青い目の人形交換」です。

27年に親善人形が届いたとき、人形受け入れの式典が日本で行われたのですが、祖父に手を引かれて壇上に上がる4歳の私の写真と、「孫の純子嬢が泣いて(栄一が)困った」という、私にとってははなはだ不名誉な記事が残されています(笑)。あのときは、確か、カメラのマグネシウムフラッシュにびっくりして泣いたんですが。