「(祖父・渋沢栄一は)私にとってはただただ優しい、愛情あふれるおじいさま。それは家族だけにとどまらず、人間全体に向けられた、広範囲の愛であったように思います。」(撮影:宮崎貢司)
明治から昭和にかけて活躍した実業家・渋沢栄一。大河ドラマ『青天を衝け』の主人公としてその生涯が注目を集めている。栄一の孫として生まれた鮫島純子さんは、70代でエッセイストデビュー。祖父との思い出やその哲学を語り継ぐことをライフワークにしてきた。潑剌とした毎日を送る鮫島さんを支えるものとは(構成=平林理恵 撮影=宮崎貢司)

孫に対してもていねいな言葉遣い

祖父である渋沢栄一が亡くなったのは、1931年11月11日。私が数えで10歳のときでした。ですから残念ながら、血気盛んな幕末の青年志士であった渋沢栄一も、銀行や証券取引所など500を超える会社を興し、《日本の資本主義の父》と呼ばれた渋沢栄一も、この目で見たわけではございません。

私にとってはただただ優しい、愛情あふれるおじいさま。それは家族だけにとどまらず、人間全体に向けられた、広範囲の愛であったように思います。

「自分一人が幸せであっても嬉しくはない。みんなが幸せであってほしい」。これが祖父の信条であり、四男である私の父・正雄は、そんな祖父を心から尊敬し、同じ道を志しておりました。そして、私の中にも、ささやかながら同じ思いが流れているのを感じます。

祖父が晩年を過ごした東京・飛鳥山の家はかつての別荘で、海外からの賓客のおもてなしの場でもあったそうです。広い日本庭園があり、ここで従兄姉たちとかくれんぼをしたり、大縄跳びをしたりするのがとても楽しみでした。

私が育ったころは、独立した祖父の息子たちの家が近所に点在していました。時折の土曜日には孫たちも祖父の家に集まります。着くとまず、ご挨拶。ひとりずつ「ごきげんよう」と進み出ると、祖父は「よう来られたな」と頭をなで、榮太樓の梅ぼ志飴を一つずつ口にいれてくれました。

孫に対してもていねいな言葉を使い、いつも穏やかな人でしたから、叱られたことは一度もありません。優しさの中にも威厳があり、みんなが尊敬しているらしい雰囲気は、子どもながらに感じていました。