最初に持ったときは「重いなあ」と思いましたよ。私は現在も理容師の仕事を続けていますが、理容師は普段からあまり重い物は持たないのです。重い物を持って疲れると、手が震えてしまいますでしょう。カミソリや鋏を持つ手が震えては、お客さんに怪我をさせてしまうかもしれない。ですから聖火ランナーに決まってから2年の間は、予約以外のお客さんは、なるべく受けませんでした。
理容師は、修業を始めてから今年で90年。生まれ故郷の那珂川町に「理容ハコイシ」を開いてから70年近くになります。自分でも、よくここまで続けてこられたものだと思っています。
夫が召集され、東京も空襲がひどくなり…
私は1916(大正5)年に、大内村谷川(現在の那珂川町)の農家に5人きょうだいの4番目として生まれました。上の姉2人も90歳を超えてから亡くなりましたから、長寿の家系なのかもしれません。私は身長が138cmと、当時としても小柄だったのですが、足は速かったんですよ。近くの3つの小学校が合同で開く運動会でも、種目の最後に行われる徒競走の学校代表に選ばれて、1等賞を取ったものです。
小学校を出た頃に、「何か手に職をつけよう」ということで、最初は村長さんの奥さんから和裁を習いました。その後、近所の人から「東京に行って床屋の修業をしてみないか」と誘われて、14歳のとき東京の店に修業に出ました。ちょうど満州事変の頃です。
同じく理容師の夫(二郎さん)と22歳で結婚して新宿・下落合に店を構え、娘と息子も生まれて。けれども息子が生まれた翌年に夫が召集され、東京も空襲がひどくなってきたので、2人の子どもと故郷の那珂川町へ戻ってきたのです。
戦争が終わってからは毎日、「今日こそ夫が帰ってくるんじゃないか」と思って待ち続けましたが、結局8年も経ってから戦死公報が届きました。幼い頃に罹った病気で障害を抱えた長女と、まだ小学生の長男を抱え、母子3人でどうやって生きていこうかと絶望的になったこともあります。そんなときに自分を支えてくれたのが、「手に職」を持っていたことでした。