僕は「イエスを生活」にはできない

「イエスの方舟」が他の教会と違っているところは、主イエスに罪の許しを請うのではなく、自分達が「イエスになる」というところです。イエスに許しを請うと、その時だけは清々しい気持ちになれるかもしれませんが、自分が変わらなければ日常は何も変わりません。「イエスになる」とはどういうことなのか、『父とは誰か、母とは誰か』からその箇所を引用してみます。

 私たちがイエスを信じるというのは、かりに田中三郎という人がいて、その人がイエスさまを信じるという、こういうもんじゃなくて、田中三郎という者が、キリストの考えを生活していく上において、どんどん死んじまうことだ。これを聖書では「外なる人が壊(やぶ)れる」と、こう言われているんです。修行や努力じゃなくて、キリストの考えを自分の存在において、また生活の場で行為していく。そこで〈古き人〉はどんどん死ぬ。外なる人はつまりやぶれる。すると「私たちの外側の人は朽ちていきますが、私たちの内側の自分は、日に日に新しくされていくのです」(コリント後4-16)。イエスそのものが生活できはじめる。

 釈迦は生活できない、孔子も生活できない、マホメットも生活できないが、イエスは奇妙なことに生活できる。イエスを生活するとなると、その生活の中身はキリストでなきゃならんことになる。そこにキリストとの合体が起きる。その人格は、もちろんイエスになる。イエスになれば〈古き人〉が死ぬ。〈古き人〉が死ぬということになれば、これは罪は消えざるをえない。なぜならば、罪というものは〈古き人〉にしか作用してないんだから。そうすると、「死にし者は、罪より義とせられたればなり」(ロマ6-7)と。キリストとの出会いということは、いうならば〈古き人〉が死ぬ、つまり自分が死んじゃうことだ。だから、生きようとおもってキリストに近づくと、実は反対に死んじゃうんです。それが〈十字架の死〉なんです。要するに、生きようおもうてキリストに近づくんですけど、でもほんとうに近づいていくと、死んじゃう。

 やっぱり死ぬのはいやで、どうしても死にたくないと頑張れば、聖書に言われていますように「己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ」(マタイ16-25)と、こないになっちゃうんです。生と死という相対的生命の存在次元から一歩も出られないということです。死ぬのがいやだと気張ったらですよ。もちろん死ぬのはいやだといっても、この死は、存在的な意味での死であって、生理的な、心臓が止まるとか脳波が止まるとか、そういう意味じゃないんです。この死によって人間の中身が変わっちゃうことです。

(『父とは誰か、母とは誰か』より)

「イエスの方舟」集会には何回通ったか覚えていませんが、「イエスの方舟」の人達の協力で『隠されていた聖書』(『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』千石剛賢・著 イエスの方舟・編 太田出版)という本を、1992年に出版させてもらうことが出来ました。集会で話された千石さんの聖書解釈をまとめたもので、この本を編集することで納得したこともたくさんあります。

しかし聖書の真意はわかっても、「イエスの方舟」の人達のように、あるいはパウロのように、自分の考えを捨ててイエスの考えで生きて行くことは、ぼくには出来なかったのです。最初に「イエスの方舟」に行った時は、モヤモヤした悩みを抱えていたのですが、悩みをなくするには「イエスを生活する」以外にないことがわかると、それが出来ないことが悩みになるのです。『隠されていた聖書』が出版された頃から、ぼくは「イエスの方舟」から遠のき、聖書に反抗するかのように、ギャンブルばかりやるようになりました。