2000年のクリスマス集会にて(神藏美子写真集『たまきはる』より)
編集者で作家、そしてサックスプレイヤー、複数の顔を持つ末井昭さんが、72歳の今、コロナ禍中で「死」について考える連載「100歳まで生きてどうするんですか?」。母、義母、父の死にざまを追った「母親は30歳、父親は71歳でろくでもない死に方をした」が話題になりました。第16回は、「イエスを生活するとは?」です。

第15回●「〈性欲〉について、イエスの方舟・千石剛賢さんに尋ねてみた」

アダムの「原罪」

聖書研究会「イエスの方舟」の責任者である千石剛賢さんの著書『父とは誰か、母とは誰か』を読んで、「イエスには性欲がなかった」という箇所から聖書に興味を持つようになったことを前回書きました。なぜイエスには性欲がなかったのか。それはイエスには「原罪」がなかったからだと。

「原罪」の発生は、創世記3章に書かれています。創世記2章で、神が人祖(猿ではありません。初めて神と交信できた人)アダムをつくり、エデンの園を設け、その中央に善悪の知識の木を生えさせ、神はアダムに『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』と言います。そして、神は『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』と、アダムを深い眠りに落とし、彼のあばら骨の一部を抜き取り、女(エバ)をつくります。神が彼女をアダムの前に連れてくると、アダムは『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉……』と歓喜し、女と結ばれ、二人は一体となります。

創世記3章で悪魔の使いである蛇が出てきます。蛇はエバに、『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』と言います。エバは『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』と曖昧なことを言います。それを聞いた蛇は、エバが嘘を言っていることを見抜き、『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ』と言ってエバを誘惑します。エバはその言葉に乗せられ、食べてしまいます。そして、一緒にいたアダムにも食べさせました。すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆います。

なぜアダムはそれを拒否できなかったのか。アダムとエバは一体だったからです。アダムがエバに対して他人という意識を持たない限り、エバが食べれば、アダムも食べたということになります。蛇はそのことを知っているのです。アダムは誘惑できないけど、エバに食べさせればアダムも食べたことになると。そして、エバの行為はそのままアダムの「原罪」になります。こうして、アダムはエデンを追放されてしまいます。

聖書はほとんど比喩で書かれているので、そのまま読んでしまうとただの神話で終わってしまいます。それを読み解き、聖書の真意を現実の場で生かして生活しているのが「イエスの方舟」の人達でした。

千石さんは『父とは誰か、母とは誰か』で、「聖書に対する姿勢のもっとも大事なものは、他のなかに自己を見ることだ」と言っています。

人間は自分のことしか考えられないのが本音だけども、自分だけが幸せになろうとすると、絶対になれない仕掛けがしてある。自分がよくなりたいということを突き詰めれば、当然、他者のなかに自己を見ていくという境地が出てくる(エデンにいる頃のアダムのように)。それが『隣人を自分のように愛しなさい』(マタイ22—39)ということの真意だと言うのです。それを目標にしないと、「イエスの方舟」が偽善者の集まりになってしまうと。