阿蘇山をバックに立つ千石剛賢さん(「イエスの方舟」で借りた1980年代に撮影された写真)
編集者で作家、そしてサックスプレイヤー、複数の顔を持つ末井昭さんが、72歳の今、コロナ禍中で「死」について考える連載「100歳まで生きてどうするんですか?」。母、義母、父の死にざまを追った「母親は30歳、父親は71歳でろくでもない死に方をした」が話題になりました。第15回は、「〈性欲〉について、イエスの方舟・千石剛賢さんに尋ねてみた」です。

第14回●「自分は何歳まで生きるんだろう。死ににくくなった今日に『楢山節考』を読む」

年を取って良かったと思うこと

3、4年前の男性向け週刊誌には、「セックス一生涯現役!!」とか「燃えつきるまでセックス」とか「死ぬまでセックス」とか、ギョッとするような見出しが躍っていました。性欲がなくなってほっとしていたら、「死ぬまでセックス」ですから、ずいぶん酷なことを言うものだと思ったのですが、「死ぬまでセックス」の人もいるんですね。

最近では「紀州のドン・ファン」と呼ばれていた人なんかそんな感じがしますが、不可解な死を遂げました。「死ぬまでセックス」なら、セックスしながら死ねたら良かったのに、残念なことです。

ぼくが、年を取って良かったと思うのは、性欲がなくなったことです。正確に言うと、まだ完全になくなってはいないようですが、女の人といてもセックスのことを想像しないぐらいまでにはなっていて、すごく楽になりました。普通に話が出来るからです。

性欲でモヤモヤしていた頃は、女の人と会っていると、その人とセックスしたらどうだろうかと考えたりして、話がうわの空になることがありました。妻帯者でありながら、恋愛のようなことをしていましたが、それも突き詰めればセックスがしたかっただけかもしれません。

自分からホテルに誘うと下心を見破られるから、相手が「ホテル行こう」と言うまで、飲めない酒を無理して終電がなくなるまでダラダラ飲んだりしていました。仕事で会っている人を飲み屋に誘い、「終電が終わったから、家まで送ります」と言ってタクシーに乗り込み、そのままホテルに行ったこともあります。

一緒に明け方まで飲んでいた女の子と高田馬場をフラフラ歩き、通りがかりのマンションの屋上に上がって、朝日を浴びながらセックスしていると、自分が犬になったような気がしました。

自分のなかにセックスに対するおぞましさがあるのは、情死した母親と見境なく誰とでもセックスをしたがっていた父親の影響だと思います。特に父親は、どうしようもないスケベ親父にしか思えないところがあって、父親のようにはなりたくないと思って育ったので、いつの間にか父親と同じようなことをしている自分に嫌悪感を持っていました。さらに、妻に対する罪悪感があって、気持ちがどんどん沈んで行きました。

その上、付き合っていた人がビルから飛び降りて大怪我をしてしまい、その責任を感じてさらに気持ちが落ち込んでいた80年代の中頃、千石剛賢(せんごくたけよし)さんの『父とは誰か、母とは誰か』(『父とは誰か、母とは誰か 「イエスの方舟」の生活と思想』・春秋社)という本を、たまたま入った小さな本屋さんで見付けました。

のちに、ぼくは福岡の「イエスの方舟」に通うことになるのですが、もちろんそんなことを考えてその本を買った訳ではなく、5年ほど前にマスコミが大騒ぎしていた「イエスの方舟」に関心があっただけのことです。