『父とは誰か、母とは誰か』千石剛賢・著

イエスには、性欲はなかった

『父とは誰か、母とは誰か』は、千石剛賢さん(周りからは「おっちゃん」と呼ばれていました)の生い立ちと聖書解釈、「イエスの方舟」のあり方、会員のみなさんの座談会で構成されています。そのなかに「性」について千石さんが話している箇所があります。

「セックスそれ自体は善いものでも悪いものでもありはしない。むろん、穢らわしいものでも、また尊いものでもありゃあしねぇ。そんなものは、単なる生理にすぎん。ただ、その人の感覚によってはとんでもないことになっちゃう」とした上で、「イエスには、性欲というものはないんです」と言っています。それは何故かというと、イエスには「原罪」がなかったからだと。

 イエスには、要するに、性欲の悩みというのはなかった。健康な男子なのに、なかった。その理由は〈原罪〉がなかったから。そのことは、女という、また男という、性別は認識しても、セックスの対象、つまり性欲の対象としては認識されなかったということです。この喩えを強いて現実の場に求めるとすれば、たしかに、親は自分の息子と娘は認識します。ところが娘に対して性欲の対象としては認識しません。正常な精神状態であればね。今は、近親相姦とかそんな無茶苦茶なことが言われてるから、これはもう話になりませんけども。

〈原罪〉がない人間というのは、どないなるのか。〈原罪〉がない人間というものには、他人がなくなっちゃうんです。〈原罪〉ということにおいて、他人が生ずるんです。だから、イエスには他人がないんです。

(『父とは誰か、母とは誰か』より)

千石さんの聖書の捉え方は、教会で牧師が話す聖書の話とは全く違います。多分、イエスに性欲があるかないかというようなことは、教会ではあまり話されないと思います。しかし、ぼくのように自分の性欲に悩んでいる人もいるのです。ぼくはイエスの性欲問題が入口となって、千石さんが解釈する聖書の世界に惹かれて行くことになります。