「男はどんな悟り持ってようが、性欲持ってます。ところが、人格的なものがすごく高い場合は、必ずしも性欲が起きるとは限らないんです。つまり、イエスという人間は、他人がなかった。全部を自己として摂取していた。こうなると性欲というものは起きません。十字架にかけられるまで性欲は一度も起きなかった。
それを実際に当てはめてみた場合、どう言うたらいいのか、例えが適当ではないんですが、野球がクライマックスになっている時に、どんな健康な男の人でも性欲のことは何も考えておられんのじゃないですか。仮にですよ、キャッチャーがきれいな女の人で股広げていても、その場合ピッチャーが色情を抱くかというと、そうではない思うんです。満塁でこの一球で勝負みたいになっている時に、股広げようとどうしようとね。何かに熱中している場合、健康だといっても性欲は起きないはずなんですよ。
人間の精神状態があるところまで高揚した場合、そういうことは起こりうるはずです。そうすると、あのイエスはいつの場合でも精神がおっそろしい高揚を勝ち得ていたんです。だから、女を見て色情を抱いたことはない。あったら聖書はみんな嘘になってしまう。イエスが偽善者になってしまいます」
キャッチャーが股広げるというところで笑ってしまいましたが、千石さんはいろんな比喩を使って、聖書に書かれていることをわかりやすく説明してくれました。
ぼくは『父とは誰か、母とは誰か』を読むまで、聖書をキリスト教の聖典だと思っていて全く興味がなかったのですが、千石さんの「イエスの性欲」の話から聖書の世界に入って行くことができました。それは、ぼくのなかで、世の価値観が真逆にひっくり返ることでした。
3時間に及ぶ千石さんのインタビューが終わったあと、千石さんの耳元で自分の悩みを相談しました。その頃、妻以外に付き合っている女性が3人いたので、「男は同時に何人もの女を愛せるものですか?」と聞くと、即座に「それは30人が限界でっしゃろ」と言いました。ぼくは「汝、姦淫するなかれ」というようなことを言われると思っていたのですが、「30人」と聞いた時、驚いたのと同時に気持ちがすごく楽になったのを覚えています。
ぼくはその後、月に1回、博多の「シオンの娘」で行われる集会に、飛行機で通うようになるのですが、そのことは次の回で。
※次回配信は7月29日(木)の予定です