「もう歌は歌えない、母のために歌い始めたのに、母がいないなら歌う意味がないと引退を考えました。」(撮影:本社写真部)
独特のハスキーボイスと心揺さぶる歌唱力で人々を魅了する森進一さん。数々のヒット曲を持ち、昭和・平成・令和を股にかけて活躍してきた功績が高く評価され、デビュー56年目にあたる今年、春の叙勲において旭日小綬章を受章した。激動の半生を振り返るインタビュー後編。夢を叶え、最愛の母を呼び寄せることができた森さんだが――。(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)

〈前編よりつづく

母がいないなら歌う意味がないと

東京・世田谷に一軒家を借りて、鹿児島から家族を呼び寄せて暮らし始めたのは、22歳の時でした。気づけば夢を叶えていたのです。でも忙しすぎたせいか、当時のことはほとんど記憶にありません。

翌71年に発表した「おふくろさん」も大ヒットして、そこでようやく成功を収めたように見えますが、いいこと100パーセントの人生というのはないんです。言うに言われぬ嫌なことがたくさんありました。なかでも母の死がつらかった。歌手にさえならなければと、失意のどん底に叩き落とされました。


――72年3月、森さんが婚約不履行で訴えられるという騒動が起きた。のちに一面識もないファンの虚言だったことが判明するのだが、大きな悲劇を招いてしまう。訪ねてきた女性に自分がお茶を振る舞ったせいだと責任を感じた母が、73年2月、自宅で自ら命を絶った。


僕は巡業先の長崎で母の訃報を受け取りました。とても受け入れられるものではなかった。もう歌は歌えない、母のために歌い始めたのに、母がいないなら歌う意味がないと引退を考えました。

でもその後、僕はまた歌に救われたのです。新曲として提供されたのは、岡本おさみさんと吉田拓郎さんという、フォーク界を代表するコンビによって作られた「襟裳岬」(74年)という楽曲。「日々の暮らしはいやでもやってくるけど静かに笑ってしまおう」という歌詞に心を打たれ、この歌で新たに出発しようと思ったのです。

僕が心から賞がほしいと望んだのは、後にも先にもこの時だけ。ありがたいことに日本レコード大賞をはじめ、たくさんの音楽賞をいただくことができました。きっと母も喜んでくれたと思っています。