「私にとって相続の手続きは地獄の作業でした。もう二度とやりたくないですよ。」
経済の専門家としてメディアで活躍する森永卓郎さん。実の父が亡くなった時、遺産相続で大変な苦労を経験したそうです(構成=村瀬素子)

父の死後、貸金庫を開けて呆然

大正生まれの父は昔気質の男で、家のことはすべて母任せ。靴下さえ母にはかせてもらっていました。そんな父を遺して、2000年に母が74歳で急逝。生活能力がない父を放っておくわけにはいきませんでした。弟と相談した末、埼玉県所沢市のわが家で引き取ることに。ふり返るとこの同居が、その後に続く介護と相続地獄の始まりでした。

父が所有する都内のマンションはそのまま残していたので、父は私たちと同居後も時々そちらに帰って気ままに暮らしていたんです。しかし、06年に脳出血で倒れて左半身不随に。わが家での介護が始まり、私の妻がつきっきりで世話をしました。

私はといえば、テレビ出演や講演などで忙しく、平日は都心の事務所に寝泊まり。介護の苦労を語る資格はありません。その後、父はがんを患い、最終的には介護施設に入居して、11年に85歳で亡くなりました。

わが家に引っ越してきてからの父の生活費はすべて私が払っていました。介護施設の費用は当初は父の口座から引き落としていたものの、毎月30万円以上はしますからすぐに底をついた。父に「ほかに預金はないの?」と聞いたところ、たくさんあるけど、銀行名も通帳のありかも「わからねぇ」と。

父は、頭はしっかりしていた。恐らく、通帳などの管理は母任せで関心がなかったのでしょう。あげく、「卓郎、おまえ稼いでんだから、とりあえず払っといてくれ」と。たしかにその頃、私は著書が売れていたため、介護施設の費用を払い続けることができた。でも、これが大きな間違いでした。

もう1つの失敗は貸金庫。父は銀行の貸金庫を利用していたので、半身不随になってから息子の私が代理で金庫を開けられるように手続きをしたのです。このとき中身を確認しなかったのが痛恨のミス。通帳や印鑑、証券など財産に関するものはすべてそこに入っていると私は信じ込んでいたのです。

ところが父の死後、貸金庫を開けて呆然としました。中にあったのは、大学の卒業証書や記念写真など思い出の品ばかり。金目のものは戦時中の軍人国債のみでした。特攻隊員だった父にとっては大事なものだったのでしょう。

父の金融資産はいったいどこにいくらあるのか? 貸金庫に手がかりとなるものはなく、私は自力で探さなければならなくなったのです。相続税の申告は「相続の開始があったことを知った日の翌日から10ヵ月以内」と法律で定められています。

期限内に申告しないと脱税で立件される可能性がある。経済アナリストという立場上、それだけは避けたかった。タイムリミットまでに何としても父の財産を調べ上げなければと、相続に向けて怒濤の日々が始まりました。