支えてくれた祖父母のために

 あとはやっぱり家族だね。俺がこうしていられるのも、妻と子どもたちのおかげ。もう子どもたちは自立して家を出たけど、皆で青森で暮らしていた頃は、東京から仕事を終えて帰って、また後ろ髪を引かれながら青森を後にしてさ……。大変だったけど、家族がいたから頑張れたんだよ。ナオキだってそうだろ?

ラブソングから壮大な曲までを愛弟子・真田さんに贈った吉さん。「思わず泣けた曲もあった。心に沁みたよ」と(撮影◎真田さんスタッフ)

真田 はい。僕の場合、社会人になったばかりで生活が苦しかった頃、「食事と寝る場所は用意してあげるから、うちへ来なさい」と親代わりになってくれたのが祖父母なんです。その後、祖母は認知症を発症してしまったので、一日も早く大舞台で歌う姿を見せたいと思っていました。

 そうか。じゃあ昨年末、日本レコード大賞の最優秀新人賞をいただけて良かったなあ。

真田 本当に。翌日祖母に電話したら、「似ている人が出ていると思ったら、あんただったの?」と言われましたけど(笑)。後日、受賞の盾も見せに行きました。両親やきょうだいも熱心に応援してくれていて、テレビ出演の情報は僕より知っています。「何日にあの番組に出るんだよね?」とマメに連絡をくれるので、僕はそのメールで放映日を知るという。(笑)

 ありがたいね。俺は15歳で上京して、日本料理店で働いてた。月3万円の給料から源泉を引かれて2万7000円。歌のレッスン料が2万円だから全然残らない。まかない付きだったから何とかやっていけたんだけどね。しかも20歳のときに「山岡英二」という芸名でデビューできたものの、郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の《新御三家》と一緒だったから、レコードを出しても全然売れないんだよ。その後は芸名が「吉幾三」に変わってさ。

真田 しばらくは覆面歌手状態だったとうかがっています。

 そうそう。1984年に「俺ら東京さ行ぐだ」をリリースした直後なんて、事務所に苦情の電話がバンバンかかってきたんだ。「あのふざけた歌を歌ってるのは誰だ!?」って。うちの親父からも「どこのバカ野郎だ! 青森五所川原の生まれだって言ってるが、お前、誰だか知ってるか?」。まさか俺本人だと言えないだろ? 「親のツラが見たい」と言われたときは、思わず「アンタだよ!」って言いそうになった。(笑)