今注目の書籍を評者が紹介。今回取り上げるのは『フィールド言語学者、巣ごもる。』(吉岡乾著/創元社)。評者は渡邊十絲子さんです。
「価値観を刷新しては」という提案なのかも
吉岡乾の前作『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』は、学者の書くお笑い戦記の傑作だ。
著者は、インドやパキスタンの山奥で、絶滅が危惧されるマイナー言語の研究をしている。研究対象である7言語のうち6言語は文字がないから文献がない。目の前でしゃべっている人が情報のすべてである。フィールドワークはもちろん困難の連続で、国際政治の緊張状態から狭い村での人間関係まで、多種多様な苦しみが詰め合わせセットになっている。きっと、知られざる苦労を成仏させるために笑い話として語るのだ。
さて、心待ちにしていた新刊である。世界的な往来不自由により、腕ききフィールドワーカーは自宅で寝ているかと思いきや、巣ごもり生活で目に(耳に)する対象に片っぱしから言語学的分析を加えている。さすがだ。
たとえば、「あの日本語は間違いだからけしからん」(と言う人が多い)問題。言語学者は、じゃあ「正しい」って何なのか、と閉口しつつも、それを言語学的話題への入り口として活用する。「違くて」や「違かった」などの「正しくない」言い方も、大阪の質屋の看板にある「ヒチ」という読みがなも、ひとつの現象であって、正誤の問題ではない。
そんな身近な話題から入って、c研究のさまざまなテーマに、さらりと(じつは強引に)引きずりこむ。これは身辺雑記に見せかけたリモート講義、それもかなり濃いめのやつだ。楽しい。
なぜかみんなに「小難しい」と思われて嫌われている「文法」のほんとうの価値なんて、この本を読んで初めて発見する人もいるのではないか。著者の講義の眼目は、「あなたの価値観を刷新してはどうですか」という提案なのかもしれない。