湿地帯だった江戸に注目した太田道灌の慧眼
――『叛鬼』には、景春の宿敵として太田道灌が登場します。太田資清の長男として生まれた道灌は、関東管領上杉家を補佐する扇谷上杉家の家宰として、30年近く続いた「享徳の乱」を戦った武将です。その道灌が江戸城を築き、それを徳川家康が引き継いで大都市に発展させ現代に繋がりますが、道灌の時代の江戸は湿地帯が広がる片田舎でした。なぜ彼は江戸に着目できたのでしょうか。
伊東:道灌の頃の江戸は大半が湿地帯で、わずかに田畑が散見される程度だと思われてきましたが、港では船が往来し、交易が盛んだったという記録もあります。
おそらく道灌は江戸を商都として発展させ、扇谷上杉家の経済基盤を強化していく構想を持っていたのではないかと思います。その点、江戸は関東各地へと物資を輸送できる好立地にあり、関東全域を支配するには最適です。
私は北条氏が滅んだ最大の原因は、小田原から本拠を江戸に移せなかったことにあると思っています。江戸は河川を使った交易網が築けるという経済的な側面はもとより、軍事的な面でも関東各地に後詰勢を送りやすい要地です。
一方、関東の南西端にある小田原では、豊臣勢のような大軍に多方面から侵入された時、手も足も出ません。氏康の代で思い切って本拠を小田原から江戸に移していれば、北条氏はもっと粘り強い抵抗ができ、もしかすると滅亡を免れていたかもしれません。
本郷:僕が疑問に思っていたことを、伊東さんが説明してくれました。確かに地政学的な重要性を見抜き、居城を江戸に定めたのは道灌の慧眼でしたが、道灌の力では江戸を大きな街にできたかは疑問です。
何といっても、江戸は井戸を掘っても出るのは塩水だけでした。だから家康は、利根川を曲げて鹿島灘にそそぐようにし、井の頭から上水道を引いています。こうした大土木工事は、家康が天下人になったから可能になったもので、道灌では無理だったと思います。