作家の伊東潤氏と本郷和人東京大学史料編纂所教授が対談!片田舎だった江戸になぜ道灌は着目したのか(写真:中央公論新社)
オリンピック開催で注目を浴びた東京。歴史をさかのぼれば、1457年に関東の武将・太田道灌が江戸城を築き、1603年に徳川家康が幕府を開いたことが今の繁栄につながる。その太田道灌と戦ったのが道灌の従兄弟で、主に対して謀反を起こした戦国の鬼・長尾景春だ。

このたび、景春の生涯を描いた小説『叛鬼』の著者で作家の伊東潤氏と本郷和人東京大学史料編纂所教授が対談。そもそもかつての江戸とは湿地帯が広がる片田舎。道灌はなぜ江戸に着目したのか――。

前編はこちら〉

上杉氏とは何者だったのか

――上杉氏といえば越後の上杉謙信の印象が強いですが、『叛鬼』を読むと、古くから関東で重要な役を果たしていたことがわかります。謙信の姓も元々は長尾で、関東管領を受け継いでから上杉を名乗っています。そもそも上杉氏とは何者だったのかを教えてください。

本郷:まず概略を説明すると、源氏三代、藤原氏(九条家)二代に続き、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が、鎌倉幕府六代目の将軍になります。

宗尊親王は母親の身分が低く、皇位も継げず、僧侶になるしかないと思われていたので、幕府が将軍に欲しいといってきたのは渡りに船でした。宗尊親王の家臣として京都から鎌倉に下ってきた下級貴族の一人が上杉です。

その後、どのような経緯かははっきりしていませんが、鎌倉幕府の御家人である足利家の家臣になって、上杉の娘が足利の子供を産むケースが増えるほど信頼されるようになります。尊氏を産んだのも、上杉清子です。

室町時代になると将軍の外戚として力を持った上杉は、鎌倉公方の第一の家臣・関東管領として、関東全域の政治を担うようになります。時代が下り、14世紀くらいになって本家が犬懸、山内、扇谷の三つに分かれるのですが、最初に犬懸が潰れ、山内、扇谷が残る。これが『叛鬼』の時代です。

その後、北条早雲の孫の北条氏康が起こした河越夜戦で、当主・上杉朝定が戦死して扇谷が滅び、山内も北条に追い詰められて越後に落ち延び、生活の面倒を長尾に見てもらう代わりに上杉の名跡を譲る。こうして誕生したのが、上杉謙信です。