ちょっとハイカラな大連の暮らし

「暖房が完備された建物の中で、サモワールでお湯を沸かし、母はペチカで毎日カステラを焼き、ロシア風の西洋的な生活を送っていた。卵がとても美味しくて、毎朝、売りに来ていたそうよ。

朝食は和食でした。ただ父はハイカラ好みだったから、コーヒー茶碗や西洋皿も大中小あって、コックさんがうちに来ていたんです。鶏の丸焼きを調理してくれたり、本格的なロシア風料理を母は習った。東京に戻ってからも、カステラや美味しいオムレツをつくってくれて、私たちは嬉しかったですよ。栗も売りに来ていて、栗の実を買ってストーブの傍に置いておくと、ポーンポーンと音がして、焼けたことを知らせて、それをむいて食べていたそうよ」

篠田桃紅が6歳の頃の家族写真(桃紅は右から3番目)。他界した長姉・清子と誕生前の四女・秀子はここにはいない(写真:『これでおしまい』<講談社>より)

大連での両親の社交は西洋式と日本式が混在していました。クローゼットには、当時のヨーロッパのドレスコードだったフロックコート、ホワイトタイ、シルクハット、山高帽、アフタヌーンドレス、イブニングドレス、オペラグローブ、紋付羽織袴、紋付留袖などが、夏用と冬用それぞれ一式揃っていました。

葉巻は当時の社交のステータスシンボル。東亜煙草株式会社は、日本政府の専売局として中国奥地の農家で煙草の原葉を買い付けていました。買い付けには憲兵も随行し、政府の役人同様の待遇を受けました。

「満州で買った洋食器は日本に持って帰った。あの頃は、ロシアを通じて日本はヨーロッパ製品を輸入していたんです。母はトルストイなどのロシア文学を読むと、大連の昔を思い出すと話していました。雪が深くて寒い場所でしょ。『アンナ・カレーニナ』の書き出しはロシアの雪に埋まったペテルスブルグの駅のホームですものね」