美意識は風流な父から受け継いだ

父は江戸幕府以前から続く由緒ある旧家の15、6代目の当主として生まれます。徳川家康が江戸幕府をつくったその年を刻した篠田家の墓があり、江戸幕府以前から続いていることがわかっています。現在の岐阜市の大方(おおかた)の土地を所有し、屋敷には江戸後期の儒学者、歴史家、漢学者の頼山陽(らいさんよう)と三男の頼三樹三郎が京都から定期的に教えに来ていました。

 

父の名を頼治郎と命名したのも、頼山陽でした。頼山陽の「頼」という字と明治の「治」が当てられています。

父の休日は、漢詩をつくり、書を書き、印を彫り、謡(うたい)に親しむ。さらに、庭の作庭や季節のしつらい、門松などにも独自の美意識を行き届かせます。

「父が風流だったから、私はずいぶんと美意識を父のやり方で覚えたことは確かね。庭も植木屋さんを連れて来て、年中、縁側であの木は枝を落とした方がいいとか、そんなことをやっているの。父は庭などに凝る人だった。

後年、私がいいなと思うような花は、みんな父や母が植え付けてくれたなと思いますね。いちはつの綺麗な白い花が毎年咲いて、私はああいいなあと思っていたことを思い出します。薄い、触るとすぐ破れそうな花びらと、厚ぼったい葉がなんともいえずに好きだったのね。花は少なくて、白梅、水仙、くちなし、百日紅(さるすべり)。ほとんどが松と檜。今思えば、うちの父の好みは悪くなかったなあという気はしますね」

会社勤めをしていた父は、毎朝、自宅に迎えに来る人力車に乗って出かけていました。駅からは電車に乗って通勤していたといいます。