東京都墨田区にある東京都慰霊堂。関東大震災による遭難者、約58000人の遺骨を納める霊堂として創建された。(写真提供:写真AC)

大震災以降、生活に「西洋」が流れ込んできた

彼女が10歳のとき、関東大震災が起きます。当日、9月1日は小学校の始業式。午前中に終わって、次姉・朝子と東京・下大井町の自宅にいました。

「姉は少女雑誌を読んでいて、父の『地震!』の一言で、私たちは庭に飛び降りた。家は潰れはしませんでしたけど、余震がしきりに来るので、家のなかにはとてもいられなかった。最初の揺れで屋根の瓦が大量に落ちて、余震のたびにガラガラと瓦が落ちて来る。夜は庭の木に蚊帳を吊って寝床にしました。

その日、父は会社を休んでいたのね。朝起きると、岐阜で被災した濃尾地震(明治24年)のときのように風が止まって、むううとした空気感を覚えた。大地震が起きると言って会社を休んだの。

夏休みだった次兄・武蔵は、父が止めるのを聞かずに、慶應大学の三田キャンパスへ調べ物に出かけた。すると、北の方角は火事で真っ赤。建物が崩れてその下敷きになってしまったかもしれない、と家族じゅうでひどく心配していたら、夕方、線路沿いを歩いて帰ってきました。『親父の勘はすごい』と感心しきりでしたよ。

天災の思い出は色褪せることありませんね。あんな恐ろしい経験をすると。しかし人生というのは、人間が抗うことのできない災難が、ときどき起こるものなんですね。

それと、関東大震災以降変わったことは、生活に西洋がなだれ込んできたことね。それまで和装で、袴をはいて通学していたのが、和装だと地震が起きたときに逃げ損なうということになった。それで洋服に変わった。

九月には洋服屋さんが学校に来て、白黒のチェック柄の木綿地が生徒全員に渡された。それをお母さんたちが縫って洋服に仕立てた。シンガーミシンを買ったのはそのとき。家に西洋の人がミシンの使い方を教えに来ていました」

※本稿は、『これでおしまい』(講談社)の一部を再編集したものです。


『これでおしまい』(著:篠田桃紅/講談社)

著者の人生哲学を短い言葉で伝える「ことば篇」と、これまでの人生を写真と文章で振り返る「人生篇」。二部構成で構成された最後にして決定版と言える一冊!