下町は戦災での死亡率も高かった
さらに45年3月の東京大空襲は、下町のほぼ全域を焼き払った。
山の手でも都心に近い住宅地は、ほぼ全域が焼き払われたが、敷地の広い一戸建てが多く、空き地も多かったから、木造住宅の密集する下町に比べれば、人的被害はずっと少なかった。そして世田谷や杉並など山の手の西側は、宅地化が進みつつある途上の、まだまだ田園風景を残す地域で、爆撃するだけの軍事的な価値がなかったから、大方は被害を免れた。
現在の東京23区にあたる地域の戦災による死亡率を比較した資料がある。
東京都民政局が行なった調査によると、東京大空襲直前の1945年2月、現在のこの地域の人口は498万6600人だった(『東京百年史 第五巻』)。空襲による死者の数は正確にはわからないが、経済安定本部の推計によれば、東京23区の戦災による死者は9万5374人(ただし東京大空襲以前のものを含む)である(経済安定本部『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』)。
両者の比率をとれば、死亡率は概算で1.91%ということになる。ところが死亡率には、地域によって極端な差がある。
東京の戦災による死者の大半をもたらした1945年3月10日の東京大空襲が、ほぼ山手線と荒川にはさまれた区域にあたる下町を標的としていたからである。とくに都心から隅田川を隔てた東側にある江東区では、27万7896人の人口に対して、死者は判明した分だけで3万9752人。死亡率は、14.3%に達している。次に高い墨田区は8.9%、台東区は4.2%である。ただし下町でも、外周部の田園地帯だった足立区や葛飾区では、被害が少ない。
他方、対して山の手、とくに郊外に位置する目黒区、杉並区、世田谷区などでは、被害が少なかった。
世田谷区の場合、人口27万2073人に対し、戦災による死者は81人(ただし世田谷区は独自の集計から死者は111人だったとしている《東京都世田谷区『せたがやの歴史』》)で、死亡率はわずか0.03%。同様に目黒区と杉並区でも、死亡率は0.09%にすぎない。ほぼ全域が空襲の被害を受けた渋谷区や港区でも、死亡率は0.5%程度で、下町との差は大きい。