「山の手」と「下町」の範囲はどう変わったのか

朝日新聞はさらに1961年の7月18日と8月1日に、「東京の山の手」「東京の下町」と題する特集記事を掲載し、その歴史と特徴について報じた。そこでは山の手と下町が、それぞれ次のように特徴づけられている。

東京の山の手と下町(『東京23区×格差と階級』より)

 

山の手「風景と風俗そして気質、生活、情緒―いずれも下町とは対照的な、独特のムードがある。森と坂と石ベイの多い高台の閑静な住宅街、そこにはなんとなく気位の高い人たちが住んでいる」

下町「森と坂の多い山の手にくらべて木が少ない、たいらな道、単調な家並み、そして必ずどこかで、汚れて臭い川や掘割につき当たる。道をきくと、きまって仕事の手を休めて親切に教えてくれる」

記事には、明治大正期、昭和初期、戦後と、三つの時期それぞれの「山の手」と「下町」の範囲を斜線部で示した地図が載っているが、これが今日的な意味での「山の手」と「下町」の範囲が確立する前の過渡期のようすを示していて、面白い。

まず山の手だが、明治大正期には麹町区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区が含まれており、昭和初期になると、これに目黒区、渋谷区、淀橋区、そして品川区、荏原区、世田谷区、そして豊島区の都心に近いごく一部だけが、山の手に含まれている。

戦後になると範囲が広がり、中野区と杉並区が山の手の一部となるが、世田谷区や大田区で山の手に含まれるのは都心に近いごく一部のみで、いまでは高級住宅地の代名詞となっている成城と田園調布も、山の手とはみなされていない。いずれも郊外の扱いである。

ちなみに北区、板橋区、練馬区と、豊島区の大半は、どちらにも含められていない。下町と山の手の中間という位置づけだろう。

次に下町の方だが、明治大正期の下町は東京15区のなかの神田区、日本橋区、京橋区、下谷区、浅草区、本所区、深川区に限られている。昭和初期になると、これが向島区、城東区、そして荒川区の三ノ輪界隈にまで広がるが、まだまだ範囲は狭い。

そして戦後だが、今日でいう下町の大部分が含まれているものの、足立区・葛飾区・江戸川区については、外周部にあたる埼玉県・千葉県との県境付近が除外されているのである。これによれば、映画「男はつらいよ」の舞台である柴又などは、下町に入らないことになる。