下町と山の手は別の形で戦後復興を遂げた
このように近代における下町は、震災と戦災という二度にわたる災禍によって、その性格を大きく決定づけられたといっていい。こんな下町を、評論家の川本三郎は、次のように表現している。
〈東京の下町は、死にひたされている。震災の死、東京空襲の死。下町情緒・江戸の残り香と美化される粋のうしろには黒々とした死が沈んでいる〉『東京暮らし』
小説家の小林信彦も、次のように書く。
〈自己流に一言述べれば、〈死〉と〈東京の下町〉はイコールなのである。……下町の人間にとって、死は〈あらかじめ風景の中に組み込まれている〉のだ〉『〈後期高齢者〉の生活と意見』
戦後になると、旧東京15区に含まれていなかった外周部の新しい下町は、戦災の被害が小さかったこともあって、多くの工場が立地するとともに労働者階級を中心に人口が増加し、工場地域として発展していく。
これに対して都心の古い下町と古い山の手は、戦前の人口を回復することなく繁華街・オフィス街の色彩を強めていく。そして外周部の新しい山の手は、新中間階級の住宅地となって人口が急増していく。
下町と山の手は、それぞれ別の形で戦後復興を遂げ、範囲をそれぞれ東と西に広げながら、その違いを鮮明にしていく。そして人々は、両者の違いを強く意識するようになっていった。